4) 山中湖・三浦環の墓 05年9月19日(月・祝)

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 三浦環(旧姓柴田)は1884(明治17)年に東京で生まれ、東京音楽学校(現・東京芸大)を卒業しました。
 父親の強い希望で1904年(明治37年)軍医の藤井善一と20歳で結婚。
 しかし仙台に赴任する夫よりも東京での音楽活動を選び、1907年に離婚しました。

 離婚した環には求愛の手紙が殺到し、1910年(明治43年)、東大出身の医師であり研究者である三浦政太郎と再婚しました。
 政太郎はお茶にビタミンCが大量に含まれていることを発見したことで有名です。

 1914年5月10日に二人は横浜港からヨーロッパに向かいました。
 1915年(大正4年)5月31日、彼女はロンドンのオペラハウスで《蝶々夫人》を歌い、大好評を博しました。
 その後、彼女はニューヨークを拠点にヨーロッパとアメリカを中心とした活動を続け、実に2000回も《蝶々夫人》を演じています。

 1920年にはローマの劇場で作曲者プッチーニ(1859〜1924)の前で蝶々さんを演じ、トレ・デル・ラーゴの別荘に招待されました。
 プッチーニは「貴女は世界にたった一人しかいない、最も理想的な蝶々さんです」と語りました。

 昭和11年、52(53?)歳で帰国後は日本で活躍しましたが、迫り来る空襲を避け昭和18年2月、東京九段坂上の自宅から山中湖・平野に疎開しました。
 後に自宅は空襲で全焼しました。
 3月には87歳の母親も合流しました。

 彼女の疎開に尽力したのが平野にある旅館「三国荘」の長田四郎氏です。
 その三国荘は今では新しい建物となっています。
 ピアノなどの遺品は三国荘別館に保存されているそうですが、公開はされていないとのことで残念です。

旅館・三国荘 三国荘別館


 彼女は湖岸で発声練習をしましたが、その声はこだまになって帰ってきたということです。
 この日は富士山が曇ってしまったので、2003年1月の平野からの富士山を御覧ください。



 昭和20年4月19日に最愛の母親が死亡。
 環は平野の寿徳寺に墓地を求め、母を葬りました。

 環は戦後演奏活動を再開しましたが、残念なことに病に倒れ、昭和21年5月26日午前5時20分、大東学園病院で死亡しました。
 享年62(3?)歳でした。
 「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という遺言により、母と同じ寿徳寺に墓が建てられました。

寿徳寺  
   
 
 
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