板東『第九』紀行(8)名古屋ドイツ人俘虜収容所 と 旭丘高校
2007年6月17日(日)

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 名古屋では06年5月末から6月初めにかけて、松坂屋本店南館1階フロアーで映画「バルトの楽園」のPR写真パネル展があり、同時に名古屋俘虜収容所の初の写真展示会が開かれました。

 1914年11月、青島から送られてきたドイツ人俘虜達は東本願寺に収容されましたが、1915年(大正4年)11月、東区古出来町に新築された収容所に移送されました。
 後に福岡、久留米から移送された俘虜も合わせ、多い時は500名を超えるドイツ人俘虜がこの収容所に収容されました。

 当時の名古屋では1911年(明治44年)に結成された「いとう呉服店(現松坂屋)少年音楽隊」が活動しており、収容所に招かれドイツ人俘虜達の前で演奏した事もあったそうです。
 この「いとう呉服店少年音楽隊」は1938年(昭和13年)に東京に本拠を移し、現在では東京フィルハーモニー交響楽団として活発な活動を続けています。

 その後、名古屋俘虜収容所では他のドイツ人俘虜収容所と同じようにドイツ人俘虜によるオーケストラが活動を開始しましたが、その結成に当たり鈴木楽器店(現鈴木バイオリン)から、楽器の提供があったということです。

 ドイツ人俘虜たちは名古屋の近代化に多大な貢献をしています。
 その代表的なものが敷島パンでしょう。
 当時半田市にあった敷島製粉は、俘虜収容所からドイツ人パン職人を招き、製パン業に乗り出しました。
 第一次大戦終了後に解放されたドイツ人俘虜からハインリッヒ・フロインドリープ氏を技師長として招きましたが、フロインドリープ氏の月給は300円で、当時のサラリーマンの約10倍だったそうです。

 月日は流れ昭和13年(1938)年、このドイツ人俘虜収容所の跡地に旭丘高等学校が新築移転してきました。
 現在、旭丘高等学校正門左手の道路に面し「日独友好の碑」が建てられています。
 
旭丘高等学校 日独友好の碑
  
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