14) 山形(2) 駒姫の墓(専称寺) 2010年8月16日(月)

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 豊臣秀次は天正19年(1591年)、九戸政実の乱鎮圧の総大将として奥州に出兵しました。
 秀次は天正19年(1591年)12月に関白に就任しました。

 秀次は異常な女好きで、正室、継室、そして多数の側室がありました。
 秀次は、東国一の美少女と名高かった最上義光の二女駒姫の噂を聞き、側室に差し出すよう義光に命じました。

 義光も困ったことでしょうが、関白の意向に逆らえるはずもなく、成人したら娘を京へ送ると約束することになりました。
 関白との関係を密にすることは、義光にもメリットがあったことでしょう。

 文禄4年(1595年)、豊臣秀次は謀叛の疑いで秀吉に切腹させられました。
 秀吉はそれだけでは飽きたらず、秀次の寵愛を受けていた女性と彼の血をひく子どもなど39名の処刑を命じました。
 処刑は京三条河原で一人ずつ行われ、5時間かかったそうです。
 遺体は遺族に渡されることも許されず、川原に掘った穴に投げ込まれ、「畜生塚」と呼ばれました。

 おぞましいばかりの所業ですが、最高権力者である秀吉がここまで狂ってしまっては、何とも致し方がないでしょうか。

 このとき駒姫(於伊万の方)は京に着いたばかりで、秀次に目通りもせぬままに処刑されてしまったそうです(15歳)。
 義光は必死で徳川家康などを通じて助命を嘆願し、淀君からの願いで秀吉の助命の使いが刑場に向かいましたが、いま一町という所で間に合わなかったそうです。
 ちょっと怪しい話ですね。

 辞世の句は、「罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」

 義光は嘆く間もなく謀反の疑いをかけられ、謹慎処分を受けることになりました。
 駒姫の母大崎夫人も駒姫のあとを追うように死亡しました。
 駒姫の死の翌年、義光は専称寺を山形城下に移し、駒姫と大崎夫人の菩提寺としました。

 当然の事ながら義光の秀吉への憎しみは強く、関ヶ原の合戦で義光は東軍に属し、西軍の上杉景勝と戦うことになります。
 
専称寺  
  駒姫の墓
 
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