1)軍人墓地 知多半島中之院 2012年3月20日(日)

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 かねてから行ってみたいと思っていた知多半島にある軍人墓地に行ってきました。
 まずはカーナビで岩屋寺(知多郡南知多町大字山海字間草109)を目指します。
 
 岩屋寺は霊亀元年(715)に元正天皇の勅願所として建立されたそうで、知多半島の先端にしては思いのほか大きなお寺でした。
 日本の寺院でも、ヨーロッパの教会でも、その規模には圧倒される事が多い。
 死んだら極楽に行きたい、天国に行きたいということでしょうが、宗教の持つ力とは凄いものだと思います。
 
岩屋寺  参 道  
経 蔵 五百羅漢石像

 
 岩屋寺から奥之院方面に進みますと、右側に目指す中之院軍人墓地がありました。
 この兵隊さん達は我が家の近くにいたんですよ。
 子供の頃には気味の悪い思いもしましたが、もう一度会ってみたいと思っていました。
 
兵隊さん達が見える 整然と並んだ兵隊さん達

 
 案内板によりますと、
 ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士達です。
 緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、艀で野間沖に待機していた巡洋艦・駆逐艦に乗り込み、わずか廿六時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月廿三日の敵前上陸でした。
 が、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。

 軍人像そのものはめいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。
 昭和12年から18年のことと言います。
 また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すことはできない、どうしても壊すというなら、我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろうと頑張った。
 おかげで像は壊されずに済んだということです。
 建立当時より名古屋市千種区月ヶ丘にあったもので、当山には御縁により平成7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
 現在もよくご遺族ご縁者の方が御参りにいらっしゃってます

 インターネットで検索してみますと、像の作者は浅野 祥雲。
 浅野祥雲は、明治24年(1891年)、岐阜県の農家の三男坊として生まれる。
 昭和53年に87歳で亡くなるまで、数々のコンクリ像を作ったとされ、現在残されている代表的な作品としては、関ヶ原ウォーランド、五色園、桃太郎神社、中之院軍人墓地などがある。
 
こちらが正面 「たぬき寺」と呼ばれている 


 一方こちらは、かつて軍人墓地があった名古屋市千種区月ヶ丘。
 この道路を2車線の対面通行にするために区画整理が行われ、兵隊さんたちは平成7年11月に中之院に移築されました。
 お年寄りに聞いたところでは、軍人墓地の跡は葬儀場の駐車場になっているそうです。

2車線の対面通行にするために 軍人墓地はここにあったそうです
 
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