福井県小浜市 (3) 小浜城址 梅田雲浜 山川登美子 杉田玄白 2015年5月31日(日) |
昼食後は、まず小浜城址。 小浜城(雲浜城)は藩祖である酒井忠勝を祀る小浜神社の奥にあり、石垣の一部が残されていました。 1601年、京極高次の代に着工され、京極氏2代にわたって普請工事が行われましたが、完成前に京極氏は出雲国松江に加増転封されました。 代わって入封した酒井氏が大幅に城の縄張を変更し、本丸天守を造営し、小浜城は1642年に完成しました。 そして、酒井氏の居城として明治を迎えました。
小浜城の近くに「梅田雲浜(うんぴん)生誕の碑」がありました。 梅田雲浜は文化12年(1815年)、小浜藩藩士・矢部義比の次男として誕生。 雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたそうです。 今でもこの地区は「雲浜」と呼ばれていますし、小浜城の別名は雲浜城でした。 年 はじめ藩校・順造館などに学び、その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、大津に湖南塾を開きました。 ところが、嘉永5年(1852年)に藩主・酒井忠義に藩政や海防について意見書を建言したのが怒りに触れて藩籍を剥奪されました。 嘉永6年(1853年)、ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判しました。 これが大老・井伊直弼の怒りに触れ、安政の大獄で摘発されました。 捕縛後は京都から江戸に送られ、安政6年(1859年)に獄中で病死しました。 享年45。
◇山川登美子記念館 小浜市出身の明治の歌人、山川登美子の生家が「山川登美子記念館」として開館しています。 記念館には生前登美子の身の回りにあった品々や歌稿など様々な品が展示されており、「登美子終焉の間」などで登美子の人生をより身近に感じていただけるでしょう。 山川登美子は福井県遠敷郡竹原村(現小浜市)に生まれる。 1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール梅花女学校に入学。 1900年(明治33年)、与謝野鉄幹が創刊した雑誌明星に歌が掲載される。 8月には鉄幹と、翌年鉄幹と結婚する与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会い親交を深める。 鉄幹を慕っていたが翌1901年(明治34年)、親の勧めた縁組により山川駐七郎と結婚。 しかし、夫は肺病のため、翌年死別。 1905年(明治38年)、晶子らと共著『恋衣』を刊行。 1909年(明治42年)、駐七郎から感染した結核が元で、生家で死去。 享年29歳。
解体新書で有名な杉田玄白は小浜藩の藩医の息子で、江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれましたが、生母は出産の際に死去しているそうです。 下屋敷で育ち、元文5年(1740年)には一家で小浜へ移り、父の玄甫が江戸詰めを命じられる延享2年(1745年)まで、小浜で暮らしました。 タクシーの運転手さんに「杉田玄白の像へ」と言ったら、しばらく考えて、「病院の前に銅像が建っているだけですよ」と言われました。 この像は1983年(昭和58年)11月13日に、小浜ライオンズクラブによって建てられた像でした。
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