武蔵野病院(太宰治) 2016年10月26日(水)

気まぐれ日本紀行(2016年)  『太宰 治』関連記録

 
 太宰治「人間失格」のテーマとなった武蔵野病院に行ってきました。
 東京メトロ有楽町線「小竹向原」駅で武蔵野病院の場所を聞くと、「山の向こうだよ」との返事。
 遊歩道は整備されていましたが、10分以上は歩いたでしょうか。

東京メトロ有楽町線「小竹向原」駅 武蔵野病院への遊歩道


 昭和10年(1935年)3月、東京帝国大学卒業が絶望となった太宰治(26歳 )は、都新聞社(現在の東京新聞)の入社試験にも失敗し、鎌倉の山中で首吊り自殺を企てましたが失敗しました。

 4月4日には、急性虫垂炎のため篠原病院に入院。
 手術を受けましたが、手遅れで腹膜炎に進行し、重態に陥りました。
 何とか一命はとりとめ、6月下旬には退院しましたが、太宰は痛み止めとして使ったパビナール注射の中毒となってしまいました。

 7月に船橋に住むようになってからもパビナール中毒は進行し、昭和11年(1936年) 27歳 2月、佐藤春夫の弟秋夫が勤務する済生会病院に入院しました。
 しかし、夜間外出、飲酒など素行不良のため10日ほどで退院させられました。

 6月、最初の作品集「晩年」を刊行。
 8月、パビナール中毒と肺病治療のため谷川温泉にて療養。
 期待した第3回芥川賞は「すでに新人に非ず」として落選。

 10月、パビナール中毒はますます悪化し、1日に50本も射つようになり、高額な薬の支払いのため経済的にも行き詰まった内妻の小山初代は、太宰の長兄である金木の文治に窮状を訴えます。
 そこで初代、井伏鱒二、中畑慶吉(五所川原の呉服屋)、北芳四郎(東京の洋服屋)の4人で相談し、太宰を武蔵野病院に入院させることとなりました。
 武蔵野病院は精神病院ですが、麻薬中毒救護所を特設していました。
 
後ろの建物が現在の武蔵野病院 ビルの間から


 最初は入院に抵抗した太宰ですが、井伏らの必死の説得に、結核の治療ということで10月13日に武蔵野病院に入院しました。
 太宰が入院したのは特別室でしたが、自殺の恐れがあるということで、2日後には鍵のかかった病棟に移されました。
 これは、かねてより院長と北北芳四郎が打ち合わせたものでした。

 サナトリウムに入院したつもりの太宰でしたが、ここが気ちがい病院(HUMAN LOST)であることを知って、パビナール中毒もあり、狂乱状態に陥りました。
 不眠・興奮が続き、号泣、廊下を徘徊、「不当監禁、不当監禁」と叫び、動物園の猿のように鉄格子につかまって、「出してくれ出してくれ」と怒鳴りました。
 死ぬまでこの病院で気ちがいとして暮らすのかという恐怖は、太宰には耐えられないことだったことでしょう。

 この鮮烈な経験は、退院直後に書かれた「HUMAN LOST」から最後の作品「人間失格」に至るまで、太宰の人生を貫く最大のテーマとなりました。

 11月12日、太宰は全治退院しました。
 太宰は初代、井伏、中畑、北の4人に騙されて気ちがい病院に入院させられたわけですが、太宰の怒りはもっぱら初代に向けられます。
 「HUMAN LOST」には、「妻をののしる文。」が書かれています。
 大地主の息子であり帝大生であった自分が、芸者上がりで無教養な初代に騙されたことは、プライドの高い太宰にとって耐えられない屈辱だったことだったでしょう。

 その一方で、井伏、中畑、北の3人とは、太宰の死まで交友が続きました。
 入院中に初代が姦通を犯していたことを太宰が知るのは、翌年のことになります。