レニングラード国立歌劇場 《スペードの女王》 1996年1月13日(土)6:00PM 愛知県芸術劇場大ホール |
レニングラード国立歌劇場 《スペードの女王》 1996年1月13日(土)6:00PM 愛知県芸術劇場大ホール 指揮:アンドレイ・アニハーノフ 演出:スタニスラフ・ガウダシンスキー ゲルマン:ヴィクトル・ピシャーエフ トムスキイ:ニコライ・ログビノフ エレツキイ:ニコライ・コピロフ 伯爵夫人:イリーナ・ポガチョワ リーザ:ヴァレンチナ・ユズベンコ ポリーナ:ラリサ・チェトエワ 会場の入りは8〜9割(だと思う)。 最初の少年合唱がオケと合わないのでびっくり。 『名古屋少年少女合唱団』だって。 ロシア語で歌っているところは、敢闘賞か? どうもこのオペラ公演、重唱の部分が微妙に合わないような気がした。 チャイコフスキーのオーケストレーションは不必要に難しそうで(交響曲でもそういうところがあるんです)、オケに同情してしまう。 でも、このオケはとても上手だと思った。 主要人物では、ゲルマンが青年将校に見えないのには困った。 《トスカ》に出てくる密偵に見えちゃうの(^^;。 どうもカツラと帽子に原因があるような気がする。 カツラをとった第3幕はゲルマンらしく見えたから。 装置は豪華ではないが、それなりに立派なもの。 ただし、第3幕の第1場『ゲルマンの部屋』と、第2場『運河の岸』が共に門扉の前だったのは当然ながら不満。 特に、第2場『運河の岸』があれでは、あらすじを知らない人には、リーザが川に飛び込んだことが分からないんじゃないかな? それにしても、まじめに働かず賭に夢中のゲルマンにも困ったものだが、そんな男を好きになって、夜中に部屋に入れようとするリーザもリーザだ。 当時のロシアは男女関係が乱れていたのか? それに、夜中の12時に『運河の岸』で逢い引きすることはないだろう? どうも非常識な話だ。 『こんな二人はどうなってもいい』なんて感想も持ってしまう。 いろいろ不満を書いているようですが、本場サンクト・ペテルブルグの《スペードの女王》を見せていただいて、それなりに大変満足しております。 ドストエフスキーは賭博狂だったそうですが、プーシキンはどうだったんでしょう? ◇YUHさんのコメント ファラオンというトランプ賭博のルールについては、私もよくは存じませんが、プーシキンの原作によれば、場の左と右にカードを開き、自分の持ち札と自分が張ったカードが一致するかどうかで勝負がつくようです。 原作ではオペラと違い、一晩に一勝負しか出来ないことになっていまして、最初の晩は場の左手に「三」、右手に「九」が出てゲルマンの引いた札が「三」で、彼の勝ち。 二晩目は左に「七」、右手に「小姓」、ゲルマンは当然「七」の札を引いて勝ち。 最後の晩は場の左に「一」、右に「女王」でゲルマンが「一」を引けば勝ちだったのが、スペードの「女王」を引いて相手の勝ちになったようです。 リーザことリザヴェータ・イヴァーノヴナの身分について、原作では身寄りのない彼女を伯爵夫人が引き取って育てているらしいことが仄めかされているだけで、血縁関係の実際については不明です。 伯爵夫人も身の回りの世話をさせたりして、小間使い的に彼女を使っています。 伯爵夫人の亡霊がゲルマンにカードの秘密を教えに来たとき、リーザを嫁にするのなら咎を許す、といいますので、リーザ自身は貴族の令嬢などではないばかりか、伯爵夫人の庇護を離れては生活力もないようです。 オペラではリーザは伯爵夫人の本当の孫かどうかはともかく、貴族のお嬢さんに格上げされ、エレツキイ公爵という婚約者まで登場しますね。 ちなみに原作ではオペラと違い、ゲルマンは精神病院に入り、リーザは心の傷も癒え死んだ伯爵夫人の家令の息子と結婚してそれなりの幸せをつかむことが示されています。 私はプーシキンの原作もチャイコフスキイのオペラも両方大好きですが、オペラの三幕の二場でリーザと再会したゲルマンが、何故貧しくともリーザといっしょに生きてゆく道を選ばないのだ、と憤らずにはいられません。 現実にはお金がなくっちゃ、ということもよく分かってはいるのですが(^^;)。 この場面でのふたりの悲劇を決定的にするためには、リーザが原作通りの境遇ではなく、深窓の令嬢にする必要があったのでしょうね。 この二場におけるリーザの血を吐くようなアリオーソは管弦楽の効果もすばらしく、全曲中で最大のききどころではないでしょうか。 |