ウィーン紀行(20) 04.1.1(木)
コリンガッセ (ビルロートを巡って)

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◇ コリンガッセ

 1887年5月、ビルロートは重症の肺炎にかかり、高熱と呼吸困難が続きました。
 肺炎からは何とか復活しましたが、ビルロートには重い心不全が残り、強心剤のジギタリスを離すことが出来なくなりました。
 1888年、ビルロートはアルサー通りの邸宅を手放し、コリンガッセの借家に移りました。

 コリンガッセはヴォテイーフ教会の近くにありました。
 場所についてはオーストリア政府観光局に問い合わせたのですが、詳しい資料を送っていただき感謝しています。

 で、「ビルロートについての旗やプレートはないか?」と端から端まで往復してみたのですが、何も発見できませんでした。
 あまり寒いので、「アイーダ」というカフェに入り、ウェートレスのお姉さんに「テオドール・ビルロートを知ってますか?」と聞いてみたら、「ナイン」という返事。
 地元の人が知らなければどうしようもありません。

コリンガッセから見たヴォティーフ教会 コリンガッセ
コリンガッセ 「アイーダ」のケーキ  正月はブタ


 ビルロートが病を得てから、ブラームスとの関係にすきま風が吹き始めます。
 「ビルロートの生涯」(武智秀夫)には様々なエピソードが書かれています。

 ブラームスが初めてコリンガッセの家を訪れたとき、ビルロートへ献呈した弦楽四重奏第一番の楽譜が額に飾られているのを見ました。
 ビルロートにしてみれば感謝と友情の証だったのでしょうが、ブラームスにとって自分の楽譜が切り裂かれたことは耐えられないことでした。

 1892年に、ビルロートがウィーンに来て25年目の記念祭が開かれました。
 ビルロートは友人を晩餐に招きました。
 皆が正装をしたパーティーにブラームスは普段着で現れ、ピアノ演奏を依頼するビルロートの言葉を無視し、ビルロートは面目を失いました。
 この日以降、ブラームスがビルロートの家を訪れることはなかったそうです。
 しかし、彼らは文通による意見交換は続けました。

 

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