ウィーン紀行(30) 04.1.2(金)
中央墓地(1) (ビルロートを巡って)

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◇  中央墓地

 本日はこのHPのコンテンツを充実させるため、お墓をあちこち訪ねる予定です。
 まずは有名な中央墓地です。
 中央墓地へは地下鉄U3号線の終点 Simmering から路面電車に乗り換えます。
 そこから中央墓地(Zentralfriedhof) 第2門(Zweite Tor) まではすぐ(2駅くらい)です。

 毎日ウィーンは寒い日が続き、雪が心配でした。
 雪に埋もれたお墓の写真では、誰のお墓か分かりませんからね。
 しかし、雪はちらほらしたものの、お墓には積もっておらず、ちゃんと写真が撮れてホッとしました。

路面電車 門の前に花屋さんが並んでいる
中央墓地第2門 正面にカール・ルェーガー教会


 まずは今回の旅行の目的、大外科医ビルロートのお墓です。
 第2門から正面のカール・ルェーガー教会に向かって歩くと、右側にビルロートのお墓がありました。
 場所についてはオーストリア政府観光局に問い合わせたところ、丁寧に教えていただき、感謝しております。
 斜め向かいは有名な画家、ハンス・マカルトでした。

テオドール・ビルロート(1829~94) ハンス・マカルト(1940~84)


 ビルロートは1887年(58歳)に、肺炎のために危篤状態となりました。
 そして肺炎からは快復したものの、心不全が残り、強心剤のジギタリスが手放せない状態となりました。
 この頃からブラームスとの関係もぎくしゃくしたものとなってきます。

 1894年、体調を崩したビルロートは、アドリア海に面したアパツィア(現ボスニア)で療養を続けました。
 彼は人生の最後を間近に、民謡についての研究をまとめようとしていました。
 そして、ブラームスに参考意見を求めたのですが、ブラームスの返事はビルロートを憤激させるものでした。
 ビルロート夫人はこの仕打ちについてブラームスを許さず、ブラームスはビルロートの葬儀への参加を拒否されたとも書かれています。

 ビルロートは1894年2月6日、アパツィアで死亡しました。
 遺体はウィーンに送られ、2月9日にエヴァンゲリスト教会で盛大な葬儀が行われ、この場所に埋葬されました。
 

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