ベルゲン・グリーグ紀行  特別企画 (^_^ゞ
13) 『過ぎた春』は『最後の春』なのです

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  あれは1990年のこと、僕は黒岩英臣さん指揮するアマチュアオーケストラのアンコールで、愁いを帯びた美しい弦楽合奏曲を聴きました。
 ロビーの掲示には、グリーグ作曲『過ぎた春』と曲名が書かれていました。

 早速CDを買って毎日聴いていたのですが、そのうち自分のオーケストラでもこの曲を演奏したいと思うようになりました。

 そこでオイレンブルクのミニチュアスコアを買って、その解説を読んでみたところ、以下に書くように、この曲は『最後の春』と名付けられるべき曲だということを知って、僕はビックリしてしまいました。

 そこで、この間違いを音楽ファンの皆さまに知っていただきたいと「音楽の友」に投稿しましたところ、「私の意見」欄に掲載されました。

 しかし、何の反響もないまま(当然でしょうか)過ぎてしまいました。
 「音楽の友」の新しい号が出れば、古い号の内容は忘れ去られてしまい、空しいものです。
 
 あれからほぼ20年が経ちました。
 そして僕は、『このホームページにこの文章を載せておけば、遠い将来まで、この曲を検索した方に内容を読んでいただけるだろう』ということに気が付きました。
 そう考えると、嬉しくなってしまいます (^_^) 。


 『音楽の友』1990年10月号

 グリーグの『Letzter Fruhing(uにウムラウト)』という曲を御存知でしょうか?

 これはノルウェイの詩人オースムン・オラフソン・ヴィニェ(Aasmund Olvasson Vinje 1818~1870年)の詩によった『Varen(春)』という自作の歌曲を、グリーグが弦楽合奏用に編曲したもので、ドイツで楽譜が出版される際『Letzter Fruhing』という題名がつけられました。

 日本では『過ぎた春(過ぎにし春)』という題名で知られていますが、実はこれがとんでもない間違いなのです。
 オイレンプルグのミニチュアスコアにあるジョン・ホートン氏の解説を訳させていただきます。

 1870年、孤独と貧困のうちに死亡したVinjeは、ノルウェーの春の到来を描いている。
 氷の塊まりが動き出し、滝の水も豊かになった。
 そして、草や花やすべての生き物が起きだしてくる。
 この美しさも彼の心を悲しみで満たす。
 なぜなら彼にとって、これが春を見る最後の機会となるだろうから。(以下略)

 「letzt」というドイツ語は英語の「last」とおなじで、「最後の」と「過ぎた(この前の)」という2つの意味があります。
 前記の解説でお分かりのように、『Letzter Fruhing』は『最後の春』と訳すべきのもです。
 ところが日本語の題名を付けるときに、曲の内容も知らぬまま、「最後の」と訳すペき「letzter」を「過ぎた」としてしまったところにすべての間違いの元があるわけです。

 このような曲について、題名の与える影響は絶大なものがあります。
 今までこの曲は、過ぎ去った北欧の春をなつかしむ爽やかな曲として聴いてこられたと思います。
 CDの解説で宇野功芳さんは「はかないリリシズムに彩られ、ベルゲン郊外の遅い春を彷彿とさせずにはおかない。」などという文章を書いています。

 もう一度、正しい理解でこの曲を聴いてみて下さい。
 今までとは全く違う、やっとめぐって来た美しい北欧の春を迎えながら、死を間近に控えた人間の、悲痛な音楽が聴こえてきませんか?
 
 
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