前へ ホームページへ 紀行目次へ 次へ アンドレアス・ホーファー |
アンドレアス・ホーファー像のそばに建っているのが「KAISERJAGERMUSEUM」。 ドイツ語辞典を引くと「JAGER」は「猟師」。 フランツヨーゼフ一世の狩猟の館だったのでしょうか。 インフォーメーションで貰った市街図には「チロル義勇兵博物館」となっており、チロル独立戦争の展示があるようです。 さっそく行ってみるとドアは閉まっており、「入口は向かいの建物」と書かれた札がドアノブにかかっていました。 振り返ると巨大な建物が建っており、これが「TIROLPANORAMA」という展示館でした。
展示館の中は巨大な空間で、まずは受付・売店でアンドレアス・ホーファーの資料を探します。 しかし彼についての本はどれもドイツ語ばかり。 せめて英語の本があれば、もっと彼のことを知る事ができたのにと、無念でした。 マンガもありましたが、やはりドイツ語ではマンガも分かりません (^_^ゞ。 一応一番薄そうな「ANNO NEUN」という本を買いました。 「ANNO」は「年」という意味だそうで「NEUN」は「9」だから、「1809年」に起きたチロル独立戦争は「ANNO NEUN」と呼ばれているようです。
この「TIROLPANORAMA」という展示館はあまりにも巨大な建物で、チロルについて様々なものが展示されていますが、解説はドイツ語だけなので何だか分かりませんでした。 ある階で階段を上がると、目の前にノルトケッテが見えました。 僕は一瞬「一面ガラス張りの展望所か」と思ったのですが、よくよく見ると現代ではなさそうです。 これが「RIESENRUNDGEMALDE」という1000平方メートル、360度の巨大パノラマ絵画で、僕は仰天してしまいました。 1896年にミュンヘンの画家ツェノ・ディーマーによって書かれたこの絵画は、1809年8月13日の第3次ベルクイーゼルの戦いを描いたものだそうです。 何はともあれ、仰天しました。 1805年のアウステルリッツの戦いでナポレオンに破れたオーストリアは、プレスブルクの講和(1805年)によって、チロル、フォアアールベルグ、ヴェネツィアをフランスに譲渡することになりました。 そして、チロルはナポレオンと同盟したバイエルンに与えられました。 バイエルンの統治と圧政はチロルの人々の憤激を買いました。 この時期アンドレアス・ホーファーは家業に戻りましたが、反バイエルンのリーダーとして活動しました。 1809年1月、ホーファーは代表団の一員としてウィーンを訪れ、オーストリア皇帝フランツ1世(最後の神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世)に謁見し、バイエルンへの反乱に対する支持を保証されました。 彼はイギリスにも渡り、国王ジョージ3世から3万ポンドの援助金を与えられました。 チロルの反乱は1809年4月9日に始まりました。 農民たちが手に手に鍬や猟銃などの武器を持って集まり、ホーファーを先頭にして進軍し、バイエルン軍と戦いながらブレンナー峠を越えて、4月11日にインスブルックを占拠しました。 農民兵に敗れたナポレオンの怒りは大きく、フランス軍の援助を得たバイエルン軍は5月19日にインスブルックを再占領しました。 ホーファー率いるチロル軍は第一次、及び第二次のベルクイーゼルの戦いでバイエルン軍を破り、5月30日にインスブルックを奪回しました。 チロルにはフランツ1世から代官が派遣され、ホーファーは彼の家に戻りました。 7月6日のワグラムの戦いでナポレオンはオーストリア軍を破り、チロルは再びナポレオンの手に落ちました。 ナポレオンはチロルに4万人のフランス軍とバイエルン軍を派遣し、彼らは再びインスブルックを占領しました。 アンドレアス・ホーファーは再び戦いを始めました。 彼の首には懸賞金がかけられました。 8月13日、14日に戦われた第3次ベルクイーゼルの戦いでチロル軍は勝利し、再びインスブルックを取り戻しました。 これでやっと「RIESENRUNDGEMALDE」まで来ました (^_^; 。
「チロル・パノラマ館」と「チロル義勇兵博物館」は地下で繋がっていました。 「チロル義勇兵博物館」は軍事博物館のようで、第一次世界大戦の展示も多い。 ドイツ語の解説が分からず、「RIESENRUNDGEMALDE」に圧倒された後で、僕はアンドレアス・ホーファーの展示を見つけることができませんでした。 今から考えると無念ですが、疲れ果てました (^_^; 。 |