山陰紀行(1) 鳥取  03年5月3日(土)
鳥取城  荒木又右衛門
 
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 県庁めぐり、今回は鳥取と松江です。
 9:51、京都発の特急「スーパーはくと(白兎)」に乗り、鳥取に向かいます。
 僕は当然山陰本線を通って鳥取に行くのだと思っていました。
 しかし、列車は東海道本線から山陽本線を通り、相生の西の「上郡」から智頭急行を北上しました。
 途中「大原駅」に停車しましたが、ここが宮本武蔵の故郷として売り出し中。
 「大原駅」の隣が、話題の「宮本武蔵駅」です。

京都駅から「スーパーはくと(白兔)」 智頭急行は宮本武蔵の里「大原」を通る


 12:53、鳥取着。
 鳥取は長久手の戦いで死亡した池田恒興の子孫がお殿様。
 まずは久松山(きゅうしょうざん)にある鳥取城址へ。

 鳥取城址には立派な石垣が残っていました。

 鳥取城といえば思い出されるのが秀吉による、天正九年(1581年)の「鳥取の渇殺し」。
 鳥取城主山名豊国は、秀吉軍の進軍の知らせに城を捨てて逃げ出したので、重臣たちは、毛利軍の山陰方面を担当していた吉川元春に救援を依頼しました。
 吉川元春は、求めに応じて吉川一族の吉川経家を城将として派遣しました。
 臨時の「雇われ城主」ですね。

 秀吉は6月に鳥取に到着し、鳥取城のある久松山を見下ろす本陣山に陣を張り、久松山を取り囲むように厳重な包囲網を敷きました。
 『鳥取の渇殺し』により食料が尽きた城内では、ついに阿鼻叫喚の地獄絵が展開することになります。
 10月20日、秀吉から降伏勧告が申し入れられましたが、それは、吉川経家は臨時の城主だから罪はなく、山名氏重臣を切腹させるという条件でした。

 しかし経家は「例え臨時の城主といえども、その責は自分が引き受けるべきである」と主張し、切腹しました。
 そのいさぎよさは、備中高松城の清水宗治とともに、戦国武将のかがみとして、後の世に長く伝えられてきました。
 鳥取城のお堀端には、吉川経家の銅像が建っていました。

 鳥取城のふもとにある仁風閣は、当時皇太子だった大正天皇行幸のため、鳥取藩のお殿様だった池田家によって建てられた洋風建築です。

鳥取駅 久松山(きゅうしょうざん)と鳥取城址
鳥取城の城主だった吉川経家 仁風閣


 鳥取ではもう一つ、玄忠寺にある荒木又右衛門の墓に興味がありました。
 荒木又右衛門は日本三大仇討(伊賀越え、曽我兄弟、忠臣蔵)の一つ、伊賀上野「鍵屋の辻」での36人斬りで有名です。
 事の発端は、岡山藩主・池田忠雄の小姓(寵童)・渡辺源太夫が河合又五郎に突然に斬られる刃傷事件です。
 又五郎は岡山を離れ、江戸の旗本の安藤家に逃げ込みました。

 又五郎の身柄をめぐって、池田公と旗本との対立は深まる一方でした。
 源太夫の兄である渡辺数馬は仇を討つことになりましたが、剣に自信がなく、姉の夫である剣豪の荒木又右衛門に助太刀を頼みました。
 この「伊賀越仇討」鍵屋ノ辻の仇討ちが成就するまでの間に、池田藩は鳥取にお国変えとなり、荒木又右衛門と渡辺数馬は鳥取に行って新藩主に報告。

 5年後に復職が叶いましたが、その復職のわずか16日後、寛永16年(1639年)8月28日、鳥取藩は荒木又右衛門の死亡を発表しました。
 なかなか不思議な話で、色々な憶測が飛んでいます。
 玄忠寺の境内にある遺品館には、彼が使用した鎖帷子や剣が展示されていました。

玄忠寺 荒木又右衛門の墓

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