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高遠城から三峰川方面に少し下ると、高遠町立博物館が建っています。 内藤家ゆかりの品々が展示されていましたが、絵島と生島の人形もありました。 高遠町立博物館の隣が「絵島囲み屋敷」です。
絵島は甲府宰相綱豊の愛妾おきよの方に仕えました。 宝永6年(1709年)1月、徳川綱吉の死によって、綱豊は6代将軍家宣となります。 しかし、家宣は正徳2年(1712年)に死亡してしまいます。 正室の天英院には子供がなく、 家宣の死後、おきよの方が産んだ家継が4歳で7代将軍となりました。 出家して月光院と称したおきよの方の勢力は、正室の天英院をしのぐようになります。 そして、絵島も32歳の時に大年寄りとなり、大奥のすべてを取り仕切るようになります。 幼少の家継を補佐したのが側用人・間部詮房と補佐役・新井白石。 天英院派の幕閣との陰湿な勢力争いの中で事件は起こりました。 正徳4年(1714年)1月12日、絵島は月光院の名代で、何人もの奥女中を連れ、前将軍家宣のお墓参りに芝の増上寺に行き、その帰り、呉服商後藤縫殿助の誘いで 山村座の美男俳優生島新五郎の舞台を見ました。 そして舞台がはねた後、絵島一行は生島たちを呼び、茶屋で宴会を開きます。 ところが、宴会に夢中になりすぎて、絵島一行は大奥の門限に遅れてしまい、これが反対勢力の企てにより問題となってしまいました。 月光院や間部詮房、新井白石を追い落とすための詮議は厳しいもので、結局、絵島には死罪が下り、生島新五郎は三宅島に遠流され、処罰は1500人にも及びました。 月光院の口添えで死罪を免れた絵島は高遠に流され、火打ち平(ひょうじだいら)の囲み屋敷に幽閉されました。 5年後には現在の屋敷がある花畑に移りますが、現在の建物は昔の見取り図をもとに再現されたものです。
内藤家では再三赦免を申し出ましたが、ほかの関係者が赦免を受けても江島は許されず、この囲み屋敷に28年間閉じこめられ、61歳で死亡しました。 内藤家の幕府に対する気遣いは並大抵のものではなく、死亡した江島は塩漬けにされ、幕府役人の到着を待って、蓮華寺に土葬されました。 江島はかねてから「もし相果て候はば日蓮宗にて候」と語っていたそうです。 この江島の墓は、大正5年に田山花袋によって発見されるまで、世間からは全く忘れられていました。
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