諏訪湖・御神渡り紀行 (4) 上諏訪 (1) 高島城 2004年2月15日(日) |
さて、本日は曇り空で山は見えそうにありません。 上諏訪観光は高島城から始めました。 ◇高島城 高島城は文録元年、日根野高吉によって建てられました。 日根野氏は美濃出身で斉藤氏の家臣でしたが、高吉の父の代から織田信長に仕え、信長の没後は豊臣秀吉に仕えました。 高吉は小牧長久手の戦いに戦功があり、小田原の役では先鋒として活躍し、その恩賞として諏訪に封じられました。 諏訪湖を埋め立てる工事は過酷を極め、郡下の老若男女を駆り出して酷使し、逃亡者も続出しました。 諏訪地方に古い墓石がないのは、この時に用いられたからだとさえ言われています。 当時は諏訪湖と河川が城の周囲をめぐり、「諏訪の浮城」と呼ばれたそうです。
関ヶ原の合戦後、日根野吉明は下野壬生へ転封になり、諏訪頼忠の長男頼水が上野総社より旧領の諏訪の地に戻りました。 初代藩主諏訪頼水から10代藩主諏訪忠礼に至る江戸時代270年の間、一度も百姓一揆などの問題を起こさなかった、良い殿様の家系だったと言われています。 ◇松平忠輝 松平忠輝は徳川家康の六男として生まれました。 1606年には伊達政宗の娘・五六八姫と結婚し、1610年には越後福島60万石を与えられ、1614年に高田城(上越市)に移城しました。 しかし、忠輝は家康や秀忠の不興を買う行いが多く、家康の遺命として改易され、伊勢の朝熊金剛証寺へ追放されました。 その後、忠輝は朝熊から飛騨高山へ移されましたが、城主・金森重頼に預かりを辞退され、信濃諏訪城主・諏訪頼水に預けられました。 頼水は、南ノ丸を築造して、ここを忠輝の住居として迎え入れました。 忠輝は1683年、92歳という当時としては異例の高齢で世を去りました。 僕は忠輝に大いに興味があったんですが、諏訪の地元では、忠輝のことはあまり取り上げられていないようで、ちょっと期待はずれでした。 |