2004年12月23日(木・祝)
長久手古戦場巡り

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 長久手古戦場巡りをしてから、「長久手青年の家」でオペラ《ラ・ボエーム》を見てきました。
 まずは古戦場巡りからレポートします。

 古戦場公園の近くでは、2005年3月25日にオープンする「愛地球博(愛知万博)」に合わせ、リニアモーターカーの工事が進んでいます。
 また、目の前には瀬戸デジタルタワーが立っていました。

リニモ・長久手古戦場駅 瀬戸デジタルタワー


 「長久手の戦い」の跡は「古戦場公園」となっていて、長久手町郷土資料室がありました。
 資料室内部は「小牧・長久手の戦い」についての展示。

 時間経過を見ますと、
 天正10年(1582年)本能寺の変。
 天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦い。
 天正12年(1584年)小牧・長久手の戦い。
 「小牧・長久手の戦い」は秀吉と家康が本格的に戦った、たった一度の戦いです。

長久手古戦場公園 長久手古戦場の碑
長久手町郷土資料室・右上に駅が見える 郷土資料室の内部


 ざっと内部を見学してから、長久手の戦いで戦死した池田恒興、池田元助、森長可のお墓探しです。
 資料室受付のおじさんに聞いたところ、「この近くにあります」と言うんですが、詳しい場所を聞くとあやふやで、どうも知らないみたいです。
 こうなったら自力で歩き回って探すしかありません。

◇勝入塚
 勝入塚は資料室のすぐ前の林の中にありました。
 池田恒興(入道して勝入)は母が信長の乳母だったため、幼少より信長に仕えました。
 本能寺の変の後は豊臣秀吉と結び、賤ヶ嶽の合戦の活躍により美濃大垣城を与えられました。
 「小牧・長久手の戦い」では、別働隊のリーダーとして家康が留守にしている本拠岡崎を奇襲するため兵を進めましたが家康の追撃にあい、この地で戦死しました。享年49歳。

勝入塚(しょうにゅうづか) 勝入塚


◇庄九郎塚
 長久手の戦いでは、恒興の長男、庄九郎(元助)も戦死しました。
 彼の墓である庄九郎塚は古戦場公園の隅に、ひっそりとありました。

 池田家は恒興の次男、輝政が相続しました。
 輝政は親の敵である家康と結び、家康の娘を後妻として娶り、関ヶ原戦後に播磨国姫路城主となりました。
 子供たちも備前、淡路、因幡鳥取などを領する大大名となりました。

庄九郎塚 庄九郎塚


◇武蔵塚
 勝入塚や庄九郎塚は古戦場公園の中にあるのですが、武蔵塚は住宅地の中にあり、探すのが大変でした。
 案内標示にも無いのによく見つけたものと、自分で自分をほめてやりたい気持ちです (^_^ゞ。

 森長可(ながよし)は本能寺の変で討ち死にした蘭丸、坊丸、力丸の兄に当たり、「鬼武蔵」と呼ばれる勇猛な武将でした。
 池田恒興の娘婿に当たりますが、彼も長久手の戦いで眉間を打ち抜かれて死亡しました。享年27歳。

 兄弟の父・可成(よしなり)は、美濃金山城主から近江宇佐山城主に任ぜられましたが、浅井・朝倉戦で戦死しました。
 長兄の可隆(よしたか)は初陣の朝倉戦で戦死しています。
 何と戦死者の多い家系でありましょう。

 森家は一番下の弟、忠政が相続し、忠政の子孫は「忠臣蔵」で浅野家がお家断絶となった赤穂藩のお殿様となり、そのまま明治維新を迎えました。

武蔵塚 武蔵塚


◇色金山(いろかねやま)
 小牧山に陣をしいていた家康は秀吉軍の動きを知り、小幡城から色金山に達しました。
 色金山は歴史公園として整備されており、山頂には家康が腰掛け軍議を開いたという巨岩・床机石がありました。
 見晴らしの良い展望台もありました。

色金山・床机石 色金山・展望台


◇首塚
 合戦後、安昌寺の雲山和尚が戦場に残された遺体を手厚く葬ったという塚です。

首塚 愛知医科大学病院
 
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