2004年12月31日(金) 九州三都紀行・長崎(2) : 鳴滝塾跡地(シーボルト) |
◇ 鳴滝塾跡地 今回の長崎旅行のテーマはシーボルトと蝶々夫人。 さっそく「鳴滝塾跡地」に向かいます。 路面電車「新中川町」から「鳴滝塾跡地」までの通りは「シーボルト通り」と名付けられ、石畳で整備されていました。 出島からは予想以上に離れた山の中で、当時としては街外れの寂しい場所だったと推測されます。 フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトは、1796年2月17日、南ドイツのヴュルツブルクに生まれました。 シーボルト家は代々名門の医者の家系でした。 ヴュルツブルク大学医学部で医学を学び、同時に動、植物学や民族学なども学びました。 若い頃から日本に強い関心を持っていたシーボルトは、1823年(27歳)にオランダ商館の医師として長崎にやって来ました。 シーボルトは出島に住み、請われれば日本人の治療にも当たりました。 その名声をしたって徐々に弟子が集まり、やがて鳴滝に私塾を開くことになりました。 シーボルトは週に一度鳴滝を訪れ、弟子の教育と患者の治療に当たりました。
鳴滝塾の建物は明治時代に取り壊され今は空き地となっていますが、シーボルトの胸像が建っていました。 この跡地にはシーボルトが愛したアジサイが植えられており、シーボルトはアジサイの学名を日本人妻の「お滝」の名から「ハイドランゲア・オタクサ」と名付けました。 文政11年(1828年)帰国の際に「大日本沿岸輿図全図」などの禁制品を持ち帰ろうとしたことが発覚し、シーボルトは厳しい詮議の末、翌年国外追放となりました。 これがいわゆる「シーボルト事件」といわれているもので、協力者に多くの犠牲者を出しました。 日本に強い関心を持ち多くの資料を収集したシーボルトですが、行き過ぎがあったようです。 シーボルトは安政6年(1859年)オランダ商事会社の顧問として再来日し、お滝や娘のお稲と感動的な再会を果たします。 彼は江戸に上り幕府の外交にも参画しましたが、不本意にも解雇され、文久2年(1862年)帰国。 4年後にミュンヘンで亡くなりました。 「シーボルト記念館」はかつての鳴滝塾の隣接地にあります。 オランダ・ライデン市にあるシーボルト旧宅をイメージ化したという赤レンガの洋館ですが、年末・年始の休館となっていました。 |