2004年12月31日(金)
九州三都紀行・長崎(3) : 眼鏡橋・二十六聖人殉教の地
 
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◇ 眼鏡橋

 長崎の中心部を流れる中島川には17世紀に次々と石橋が架けられました。
 中でも有名な「眼鏡橋」は、1634年に興福寺の如定によって架設されました。
 しかしこれらの石橋群は1982年の長崎大水害で大きな被害を受け、今でも復旧工事が行われています。
 落ち着いた情緒のある風景ですが、車の通行の障害にはなっているようです。

眼鏡橋 眼鏡橋


◇ 二十六聖人殉教地(西坂公園)

 豊臣秀吉は1587年に「伴天連追放令」を発布し、キリスト教を禁じ、宣教師に国外退去を命じました。
 しかし、一方ではポルトガル船の来港と貿易は許していました。

 1596(慶長元)年10月19日、マニラを出港してメキシコへ向かっていたスペイン船サン・フェリペ号が嵐に遭い、土佐の浦戸にたどり着きました。
 長曾我部元親から報告を受けた秀吉は増田長盛に命じ、サン・フェリペ号の膨大な積み荷をことごとく押収しました。
 この積み荷をめぐる確執から騒ぎが次第に大きくなっていきました。

 1596年12月、近畿地方で布教活動をしていたペトロ・バブチスタ神父ら6人のフランシスコ派宣教師とパウロ三木ら日本人信徒20人が秀吉の命で捕らえられました。
 中には10代の少年3人も含まれていました。
 彼らは1月3日に左の耳たぶを切られ、1月9日から極寒の中長崎まで約850kmを歩かされました。
 そして長崎に到着してすぐ、1597年2月5日にこの西坂の地で磔になりました。

 当時長崎にいて処刑を見たイエズス会のルイス・フロイスは『長崎の二十六きりしたん殉教報告』を、マカオとマニラ経由でローマに送りました。
 この事件は日本における最初の殉教であったこと、外国人宣教師が日本の為政者の命令で処刑された最初の事件であったことから、日本国内は勿論のことヨーロッパのキリスト教社会にも大きな衝撃を与えました。
 30年後、ローマ教皇は26人を「福者」となし、1862年教皇ピオ九世によって26人の殉教者は聖人の列に加えられました。

二十六聖人殉教碑 二十六聖人殉教碑
殉教碑と記念聖堂 記念聖堂
当時は海岸に面していたという 彼らが十字架から見た景色
 
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