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◇ 修禅寺 修禅寺といえば岡本綺堂作、清水脩作曲のオペラ《修禅寺物語》でしょう。 見たことはないんですが‥‥ (^_^ゞ。 作者の岡本綺堂は修禅寺宝物館に所蔵されている寺宝の面からインスピレーションを得て、新井旅館でこの作品を書き上げたそうです。 面作り師の夜叉王は将軍頼家から顔を似せた面を作るよう依頼されていたが、何度打っても顔面に死相が表れてしまう。 催促に訪れた頼家に夜叉王の娘の桂は死相の面を手渡してしまう。 その夜、頼家は鎌倉方の手勢によって殺害される。 しかしながら、修禅寺は「平成大修復」の最中で、建物を見ることが出来ませんでした。 宝物殿のお面は拝見しました。
◇ 独鈷の湯 大同2年(807年)にこの地を訪れた弘法大師は、桂川の水で病んだ父の体を洗う少年の孝心に心を打たれ、手にした独鈷(とっこ・仏具)で川中の岩を打ち、温泉を湧出させたといわれています。 そのため、この温泉は「独鈷の湯」と呼ばれています。 しかしながら桂川では、昨年の大雨による被害の河川工事が行われており、ガイドブックに見る「独鈷の湯」の建物はありませんでした。 お湯は沸いておりまして、夜中に入浴している人がいましたが、ちょっと不気味でした。
◇ 頼家の墓 明治25年、修善寺を訪れた正岡子規は、「此の里に悲しきものの二つあり 範頼の墓と頼家の墓と」と詠みました。 まずは「頼家の墓」です。 正治元年(1199)正月、源頼朝が急死すると、嫡男・頼家がわずか18歳で鎌倉幕府2代将軍になりました。 しかし頼家には有力な御家人を統率出来る力量がなく、権力を振りかざしての行動が目立ち、北条時政と政子が画策して、幕政は有力御家人13人の合議制で運営していくことに決定されました。 こうして頼家は将軍になってわずか3ヶ月で、将軍としての権力を取り上げられました。 源頼家の妻は比企能員(よしかず)の娘の若狭局であり、局は嫡男・一幡を生みました。 頼家は何かと比企能員を頼りにし、北条氏に対抗して源氏の実権の回復を謀り、能員と組んで北条氏を討とうとしました。 しかし北条時政は比企能員を巧みに自邸に招きいれ、殺害するとともに、比企邸を攻撃。 若狭局はわずか6才の一幡とともに炎の中で死亡しました。 建仁3年(1203)9月29日、頼家は伊豆の修善寺に幽閉され、翌元久元年(1204)7月17日、北条氏の刺客によって暗殺されました。 享年23才でした。 源頼家の冥福を祈って、母政子は指月殿を建てました。 指月殿の隣には、頼家の墓がありました。
◇ 範頼の墓 源範頼は、木曽義仲追討、平家滅亡に源氏軍の総大将として、義経とともに活躍しました。 しかし、彼の最後は悲劇的でした。 「源範頼の墓」の説明板には、次のように書かれています。 頼朝と義経の仲が険悪化した時、頼朝が範頼に義経を殺すよう命じたが、兄弟を殺すのは嫌だと断わると、範頼も義経のように叛くようになると、疑われるようになった。 建久四年(1193)五月の曾我兄弟仇討ちの時、頼朝も巻き込まれ殺されたと誤って伝えられ、嘆き悲しむ政子を慰めて、「範頼がおりますからご安心下さい」と云ったことが、頼朝亡き後幕府横領の下心だと疑いを招いた。 範頼は百万陳弁につとめたが、同年八月十七日、ついに当地修禅寺に幽閉され、さらに同月末、梶原景時に攻められて、日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝えられている。
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