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今回韮山へ行ったのは大河ドラマ『義経』に出てくる「蛭ケ小島」を見ることが目的だったのですが、この町には頼朝・北条時代、足利時代、戦国時代、江戸時代の多くの史跡が残されており、驚きました。 ◇ 願成就院 文治5年(1189)に北条時政が源頼朝の奥州征伐戦勝祈願のために自分の居館の隣接地に建立した寺で、北条氏の氏寺として繁栄しました。 この寺には北条時政と足利茶々丸の墓がありました。 源頼家と比企氏を殺害し幕府の実権を握った北条時政ですが、後妻牧の方の娘婿である平賀朝雅の将軍擁立を謀ったとして(平賀朝雅の乱、元久2(1205)年)先妻の子である政子・義時によって失脚させられ、この地に幽閉されました。 建保3(1215)年正月6日、死去。
◇ 北条政子産湯の井戸 願成就院近くに「北条政子産湯の井戸」がありました。 尼将軍北条政子は、時政の長女として保元2(1156)年この地で生まれました。
◇ 堀越(ほりごえ)御所 「北条政子産湯の井戸」のすぐそばにあるのが「伝堀越御所跡」で、どうも北条家の屋敷と堀越御所は、場所が重なっているような気がします。 「伝堀越御所跡」からは富士山が綺麗に見えていました。 時は室町時代、長禄2(1458)年。 将軍足利義政は幕府に反抗する古河公方足利成氏を抑えるために、弟の政知を関東に下向させました。 しかし関東の情勢は混迷を極め、やむを得ず政知は伊豆国堀越の地に居館を構えました。 政知は30年余、ここで関東入りを狙いましたが、延徳3年(1491)に死去し、子の茶々丸が跡を継ぎました。 しかし茶々丸は、跡目相続争いで継母と異母弟を殺害して内紛を生じ、その混乱に乗じて伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が茶々丸を討滅ぼしました。 これが戦国時代の始まりとされています。 |