韮山(2) 蛭ケ小島 & 韮山城趾
05年3月21日(月・休)

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◇ 蛭ケ小島

 1160年、平治の乱に父義朝が破れ、14歳の頼朝は伊豆の蛭ケ小島に流されました。
 1177年、北条政子が親の反対を押し切って頼朝の下へ駆け込みました。
 1180年、以仁王(後白河天皇の第二皇子)の令旨(皇太子及びそれに準じる太皇太后、皇太后、皇后の命令を伝える文書)を受け、34歳の頼朝は平氏討伐の兵を挙げました。

 北条氏の屋敷があった願成就院と蛭ケ小島は1kmも離れていないでしょうか。
 この距離なら頼朝と政子が逢瀬を重ねるのも簡単なことだったでしょう。

 現在「蛭ケ小島」は公園として整備され、「蛭ケ島の夫婦」と名付けられた頼朝と政子の像が建っています。
 彼らの見つめる先には富士山、そして右手には箱根の山が見えていました。
 彼らはこの美しい景色を見ながら青春時代を過ごしたのです。

蛭ケ小島 蛭ケ島の夫婦
彼らが眺めているのは富士山 右手には箱根の山


◇ 韮山城趾

 時はまた変わって室町時代末期の1491年。
 駿河興国寺城にいた伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)は足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となりました。
 隣の国を乗っ取ってしまったわけで、これが戦国時代の始まりとされています。

 早雲は韮山城を拠点として伊豆を平定し、明応4年(1495年)には小田原城・大森藤頼に夜襲をかけ、城を奪い取ってしまいました。
 本拠を小田原に移した北条早雲は、後に韮山にもどり1519年88歳で没しました。
 葬儀は修禅寺で行われ、箱根の早雲寺にお墓があります。

 息切れしながらやっとの思いでたどり着いた韮山城趾からは遠くに富士山が望まれ、眼下には韮山高校の運動場が見下ろせました。
 この「富士山とサッカー」の写真は気に入っています (^_^) 。

韮山城趾遠景・城池親水公園 本丸跡より「富士山とサッカー」

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