京都花見紀行・琵琶湖疎水
05年4月10日(日)&17日(日)

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◇ 琵琶湖疎水

  明治14年に第3代京都府知事となった北垣国道は京都の水不足を解消するため、琵琶湖の水を京都に引くことを考えました。
 琵琶湖と京都の間に水を引くためには、山をくり抜く多くのトンネルが必要となります。
 北垣は東京の工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を京都府御用掛に任じ、琵琶湖疎水の大工事に取りかかりました。
 琵琶湖疏水は難工事の末、着工から5年後の明治23(1890)年に完成しました。

 琵琶湖疎水は山科からトンネルを通り、蹴上から京都に入ってきます。
 その水量は豊富で、こんなに取水しては琵琶湖の水が枯渇するのではないかと心配になるほどです。

 蹴上船溜りの公園には田邊朔郎博士の像が建っていました。
 琵琶湖疎水の本流はここから水力発電のための導水管を通り、南禅寺船溜から平安神宮へと流れます。

第一疎水第3トンネル西口 田邉朔郎博士の像
水力発電の導水管 南禅寺船溜り


◇ インクライン

 蹴上船溜りから南禅寺船溜りにかけて、582m に 36m の標高差があり、この水位差を利用して水力発電が行われました。
 この電力により新しい工場が生まれ、路面電車も走り出し、京都の街は活力を取り戻しました。


 一方、琵琶湖から船で運ばれた物資は、インクライン(傾斜鉄道)により船をそのまま船受枠(船を乗せる台車)に載せて上下させました。
 インクラインが盛んに利用されたのは昭和初期までで、陸上交通の発達につれて次第に利用されなくなりましたが、昭和52年に復元され、京都市の文化財として保存されています。

 インクラインは桜の名所として有名で、10日には満開の桜を見ることが出来ました。
 17日にも訪れたのですが、ほとんど散った状態でした。
 花の命は短いものです。

インクラインの船受枠 蹴上船溜り
10日、満開の桜 17日、桜はほとんど散っている

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