遠州紀行(6) 05年5月4日(水・休)
相良・田沼意次の領地

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◇ 相良・田沼意次の領地

 昼食に時間を取られてしまい、時間も遅くなりましたが、ここまで来たついでに、田沼意次の所領であった「相良」に寄ることにしました。

 田沼意次(1719年〜1788年)は、紀州藩士の子として江戸で生まれました。
 8代将軍吉宗により、その子家重(9代将軍)の小姓として取り立てられました。

 意次は宝暦8年(1758年)には大名になり、1761年に家重が亡くなった後も10代将軍家治に信頼され、御用人から側用人へと出世しました。
 安永元年(1772年)には老中を兼任し、相良藩5万7千石の大名に取り立てられました。

 相良町は観光客用の案内も少なく、寂しい町でした。
 相良町資料館の前には「相良城本丸跡」の碑が立っていましたが、周囲には町役場、小学校、中学校、高校があり、かつての相良城の城域はかなり広いものだったと考えられました。


相良バスターミナル 相良町資料館
相良城本丸跡 10月には牧之原市
二の丸の土手にあるクロマツ 相良小学校(?)と資料館

 しかし、重商主義政策の行き詰まりとともに意次に対する非難も強くなり、天明4年(1784年)に息子で若年寄の意知が江戸城内で佐野政言に暗殺された事を契機とし、意次の権勢も下り坂となります。

 そして天明6年(1786年)将軍家治の死亡後に意次は失脚、隠居謹慎となり、新たに老中となった松平定信ら譜代・親藩による寛政の改革が始まります。

 意次は天明8年(1788年)に死去、享年69。 墓所は東京都豊島区駒込の勝林寺にあるそうです。
 相良城も天明8年に徹底的に破却され、当時を偲ばせるものは二の丸の土手にあるクロマツくらいでした。

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