斎藤茂吉紀行(1) 港区 青山 2006年2月12日(日) |
東京文学ツアー、先週の樋口一葉に続き、今日は歌人であり神経科医であった斎藤茂吉を訪ねてみました。 斎藤茂吉は明治15年(1882年)5月14日、山形県南村山郡金瓶村(現上山市金瓶)に、父守谷伝右衛門と母いくの三男として生まれました。 上山市金瓶の茂吉生家は03年8月に訪れました。 上山尋常高等小学校を首席で卒業した14歳の茂吉は、東京で浅草医院を営んでいた親戚の斎藤紀一に迎えられることになり、上京しました。 そして開成尋常中学校、第一高等学校、東京帝国大学医科大学と進学した茂吉は、明治38年7月、紀一の次女てる子の婿養子として入籍、正式に斎藤家の一員となり、精神科医への道を進みました。 茂吉の義父斉藤紀一はドイツ留学したドクトル・メディチーネとして、赤坂区南町5丁目の敷地2560坪に建坪250坪という巨大病院を建設しました。 帝国脳病院(青山脳病院)と名付けられたこの病院は明治40年9月に完成しました。 茂吉とてる子の結婚式も、この病院で行われました。 昨日(2月11日)に「表参道ヒルズ」が開業し、地下鉄「表参道駅」は大混雑していました。 せっかくなので、「表参道ヒルズ」を遠くから眺めてみました。
「表参道」の交差点から「表参道ヒルズ」とは反対の南方向に歩くと、左手に青南小学校が見えてきます。 茂太や宗吉(北杜夫)ら、茂吉の子供達は青南小学校で学びました。 この小学校には、四・五年生をこの学校で過ごした中村草田男が母校を20年ぶりに訪れた時に詠んだ「降る雪や明治は遠くなりにけり」の句碑があるはずなんですが、校門が閉まっていてはどうしようもありません。 青南小学校の角を左折し、突き当たりの「王子グリーンヒル・アパートメンツ」が、かつての青山脳病院の跡地で、「あかあかと 一本の道 通りたり 霊剋るわが 命なりけり」の句碑が建てられています。
青山脳病院は大正13年12月29日に火の不始末から全焼しました。 20数名の死亡者が出る大惨事でした。 当時ヨーロッパ留学中の茂吉が送った多くの貴重な文献・書籍が灰となりました。 茂吉はヨーロッパ留学から帰る船の中で、その電報を受け取りました。 帰国後、茂吉は焼け跡に残った二階屋に住みました。 青山脳病院の再建は住民の反対運動もあり、病院は東京府下松沢村松原に再建されました。 病院の火災保険は期限切れで、多大な借金が茂吉の肩にかかってきました。 青山の焼け跡の診療所は「青山脳病科病院」と名付けられ、松原の本院の分院となりました。 徐々に病棟も整備され、軽症患者の入院施設となりました。 茂吉はこの建物に、太平洋戦争で山形に疎開するまで20年間住み、多くの作品がここで作られました。 太平洋戦争末期の昭和20年5月25日、アメリカ軍の空襲により青山脳病院は全焼し、その終焉を迎えました。 この日、実際は近くの青山墓地に向かったのですが、この紀行文では先に世田谷区松原町を訪れることにしましょう。 |