斎藤茂吉紀行(2) 世田谷区 松原 2006年2月12日(日) |
◇ 梅ヶ丘病院 大正13年12月29日に全焼した青山脳病院は、周辺住民の反対運動もあり、東京府下松沢村松原に再建されました。 火災保険は期限切れで、多大な借金が茂吉の肩にかかってきました。 大正15年、松原に新青山脳病院開設。 松原の病院は「本院」、青山の診療所は「分院」と呼ばれました。 茂吉は日記に「十年くらい老いた気がした」と嘆くほど、借金を始めとする様々な苦労を重ねました。 『うつそみの吾を救いてあはれあはれ十万円を貸すひとなきか』 小田急小田原線「梅ヶ丘駅」から「梅ヶ丘病院」までは徒歩5分くらいでしょうか。 病院の前に 『茂吉われ院長となりいそしむを世のもろびとよ知りてくだされよ』 の句碑が建てられていました。
梅ヶ丘病院は北杜夫の『楡家の人びと』の舞台でもあります。 昭和2年4月、義父紀一に代わり、茂吉が青山脳病院の院長に就任。 昭和2年5月1日、次男宗吉(北杜夫)誕生。 昭和3年11月17日、義父紀一が熱海の静養先で死亡。 昭和8年11月、いわゆる「ダンスホール事件」の後、茂吉と別居した妻てる子は、青山脳病院本院脇にある弟西洋宅で暮らすことになり、子供達は茂吉に隠れて母の元を訪れました。 青山脳病院は昭和20年東京都に移管され、青山の分院と同じ5月25日の空襲で半焼しました。 後に小児精神科専門の「都立梅ヶ丘病院」となり、初代院長に茂吉の義弟斉藤西洋が就任しました。 西洋は、現職で昭和33年死亡しました。 平成13年に都立病院の再編整備計画が策定され、梅ヶ丘病院は府中市に移転することになり、反対の署名活動が行われていました。 ◇ 羽根木公園 「せたがや梅まつり」 駅に近い「羽根木公園」は、かつては根津山と呼ばれ、茂吉が散歩し、北杜夫が昆虫採集に熱中した山でした。 おりしも「せたがや梅まつり」が開かれていましたので、回ってみました。 冬が長かったためでしょうか梅の花はほとんど咲いていませんでしたが、モデル撮影会が開かれていました。 僕も初めての経験で撮影会に飛び入り参加してみましたが、周囲のカメラマンの熱気には圧倒されました (^_^ゞ。
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