斎藤茂吉紀行(3) 世田谷区 代田 2006年2月12日(日) |
空襲も激しくなった昭和20年4月10日、茂吉は故郷の金瓶へ疎開しました。 5月25日の空襲で、青山の自宅も病院も全焼しました。 戦争中から戦後の混乱期を茂吉が金瓶や大石田での疎開暮らしをしている間に、東京では長男茂太を中心に、齋藤家の生活基盤が着々と整えられました。 代田の家を購入するにあたり、妻てる子が家を見つけたり、岩波書店などから勝手に借金をしたり、大活躍をしたのは有名な話です。 茂太は昭和23年に、大学勤務の傍ら「斉藤神経科クリニック」を開業、夜間のみの診療を始めました。 小田急「世田谷代田駅」は、「梅ヶ丘」の隣です。 駅から坂を下り、環状7号線にかかる陸橋を渡ると、そこは代田八幡神社。 茂吉の時代には当然環状7号線は無かったわけで、そのころの景色を想像することも出来ません。 「下北沢X物語」という長大なブログによれば、代田八幡宮から少し南に茂吉の家があるとのこと。
昭和22年11月4日、66歳の茂吉は疎開先の大石田から代田の家に帰ってきました。 茂吉は「菊池寛の父帰るだ」と笑いながら呼び鈴を押したということです。 茂吉は孫の茂一を溺愛し、一緒に八幡神社を散歩しました。 しかし、代田の家は開業にはあまりに狭く、一家は病院の再建を目指し、昭和25年10月22日に新宿大京町に移転します。 その直前、10月19日に茂吉は左半身の不全麻痺を起こしました。 また、心臓ぜんそくの症状も悪化してきました。 茂吉は昭和25年11月14日に、寝台車に乗って大京町の家へ転居することになります。 |