太宰治の『津軽』を巡る(1) 蟹田・観瀾山 2006年8月13日(日) |
![]() 昭和19年、多くの友人たちが死亡した歳(数えで36歳)となった太宰治は、「私も生きているうちに、いちど、自分の生まれた地方の隅々を見て置きたくて」ということで、津軽の旅に出かけました。 彼は5月12日から6月5日にかけて津軽地方を回り、同年(昭和19年)11月、太宰は小山書店から『新風土記叢書7』として小説『津軽』を刊行しました。 バスと徒歩で回った太宰の時代とは異なり、津軽半島を一周する道路も整備され、今では2日もあれば津軽半島を一周することが出来ます。 青森空港で借りたレンタカーで津軽半島を北上し、まずは蟹田からですが、蟹田は市町村合併で外ケ浜町になっていました。 蟹田など昔の地名が載った右の地図は、今となってはとても貴重品ですよ (^_^) 。 ◇ 蟹田・観瀾山 蟹田で太宰はN君こと中村貞次郎氏宅に泊まり、観瀾山で花見をしました。 その観瀾山は公園として整備されていました。 石柱に書かれた「風のまち」は小説『津軽』から取られたものです。 太宰が風が強い日に来れば、町のキャッチフレーズが「風のまち」になってしまう。 文学作品が持つ影響力の強さに驚きます。 麓から階段を上って頂上まで10分くらいでしょうか。 まだ紫陽花が咲いていたのには驚きましたが、この後あちこちで紫陽花を見ることになります。
山頂には太宰の文学碑が建てられ、蟹田の町が見下ろせます。 碑文の「かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった!」は太宰の「正義と微笑」から井伏鱒二が選び、佐藤春夫が筆を取りました。 太宰はここから夏泊半島や下北半島を眺めたようですが、この日は曇り空で、それほど眺望が開けませんでした。
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