函館紀行(5) 石川啄木(小公園・青柳町・一族の墓・立待岬) 2006年9月24日(日) |
函館観光、本日はJR函館駅に近い函館朝市から。
◇ 啄木小公園 故郷の渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務していた石川啄木(1886年2月20日〜1912年4月13日)は、明治40年(1907年)5月5日に函館にやってきました。 啄木は弥生尋常小学校の代用教員としての職を得、離散していた家族を呼び寄せることが出来ました。 しかし、8月25日夜、函館市内を襲った大火により啄木は家も職も失い、札幌へ生活の場を移すことになりました。 啄木が函館にいたのはわずか4ヶ月足らずだったのです。 津軽海峡に面した啄木小公園には啄木の座像がありました。 バックの函館山の左の絶壁は立待岬ですが、この岬に「石川啄木一族の墓」があるのです。 小公園には「土方・啄木浪漫館」も建っていました。
◇ 石川啄木居住地跡 「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」 青柳町には「石川啄木居住地跡」がありました。 函館山の麓にあって、彼が散歩した大森海岸にも近い場所でした。
◇ 啄木一族の墓 「啄木一族の墓」は立待岬に近く、函館山や津軽海峡を望む、見晴らしの良い場所に建っていました。 肺結核で闘病中の啄木は、1912年(明治45年)4月13日午前9時30分、小石川区久堅町の借家で、妻節子、父一禎と若山牧水にみとられて死亡しました。 享年27歳。 4月15日、浅草等光寺で葬儀が行われ、夏目漱石も参列しました。 6月14日、妻節子が療養先の千葉県安房郡北条町で二女房江を出産。 9月4日、節子は二人の遺児(京子、房江)を連れ、実家堀合家を頼り、函館に移りました。 東京には石川家の身寄りが無く、夫・啄木や長男・真一、姑・カツの遺骨の取り扱いを心配した節子の意向で、東京から函館へ遺骨が移されました。 翌1913年(大正2年)5月5日、節子も肺結核で病死しました。 6月22日、節子の四十九日を迎え、義弟(節子の妹・ふき子の夫)宮崎郁雨や、函館図書館主事、岡田健蔵らの尽力で、函館・立待岬の墓地に遺骨が埋葬されました。 1931年(昭和6年)4月13日、啄木の父一禎、娘の京子、房江の遺骨が一族の墓に納骨されました。
◇ 立待岬
|