函館紀行(6) 碧血碑 & 土方歳三 & 函館山
 2006年9月24日(日)

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◇ 碧血碑(へっけつひ)

 立待岬から函館市街に帰る途中の鬱蒼とした森の中に「碧血碑」がありました。

 1869年(明治2年)5月18日、戊辰戦争は五稜郭の開城でその幕を閉じ、亀田八幡宮で総裁榎本武揚ら旧幕府軍と新政府軍の陸軍参謀黒田清隆との間で終戦調停が行われました。
 この戦いによる官軍の戦死者は靖国神社をはじめ各地の招魂社(護国神社)へ手厚くまつられました。

 一方、賊軍となった旧幕府軍の遺体は、戦争終結後も野ざらしになっていました。
 これを見かねた箱館の侠客柳川熊吉が実行寺の日隆和尚らとともに遺体を回収して、実行寺などに埋葬しました。
 後に柳川は函館山山腹のこの地を購入し、戦死者を改葬しました。

碧血碑  


 明治7年(1874年)に、明治政府が賊軍の汚名を負った者の祭祀を許可すると、榎本武揚・大鳥圭介らが柳川熊吉と協力して、この碧血碑を建立しました。
 「碧血」とは「義に殉じて流した武士の血は三年経つと碧に変る」(荘子)という中国の故事によるそうです。
 碑石は6メートルの大きさで、800人が祀られ、碑文は大鳥圭介のものだと言われています。

 碧血碑のそばに、柳川熊吉の「寿碑」がありました。
 大正2年(1913年)熊吉88歳の米寿に際し、その行いを後世に伝えるため、建てられたそうです。


◇ 土方歳三最期の地

 同志近藤勇を死なせてしまった土方歳三は、当然ここ函館を自分の死に場所と決めていたでしょう。
 1869年(明治2年)5月5日、歳三は小姓の市村鉄之助に遺品(写真・毛髪)と辞世の歌を託し、郷里多摩の日野に送りました。

 土方歳三の戦死した場所は一本木(現・若松町)とされていますが、他の説もあるようです。
 「土方歳三最後の地」の案内看板によれば、「明治2年(1869)5月11日土方は新政府軍の手に落ちた箱館を奪回するため50名の兵を率いて一本木の関門を出て箱館の市中に向かい敢然と切り込んでいったが、銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に三十五歳であった」とのことです。
 
 土方歳三は函館の人気者で、五稜郭タワー前には銅像が建っており、啄木小公園には『土方・啄木浪漫館』がありました。
 
 一本木関門 手前が五稜郭側 案内看板


◇ 八幡坂

 チャーミーグリーンのCMで有名な「八幡坂」。
 真っ直ぐに伸びる坂の下は函館湾で、青函連絡船の摩周丸が見えます

 この坂を登りきったところが函館西高校で、演歌歌手の北島三郎の母校として有名。
 ここにかつて八幡宮があり、明治の大火で焼失し他に移った後も、「八幡坂」の名前だけは残ったとのことです。

八幡坂 正面に摩周丸 函館西高 北島三郎の母校


◇ 昼の函館山

 もう一度函館山に登って、今回の函館旅行はおしまいです。
 好天にも恵まれ、函館は見所の多い、魅力的な街でした。



ロープウェイ 本日も快晴
函館港と八幡坂 五稜郭方面
駒ヶ岳 恵 山
 
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