板東『第九』紀行(5)ドイツ村公園・『第九』日本初演の地
2007年6月17日(日)

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 鳴門市ドイツ館から駅方向にしばらく行くと、「ドイツ村公園」があります。
 ドイツ村公園の入口には、右側に「板東俘虜収容所跡」、左側に「ベートーヴェン『第九』日本初演の地」と書かれた2本の門柱が立っています。

 ここがかつてのドイツ人俘虜収容所であり、当時は BANDOロケ村に再現されたように、2列に並んだ計8棟のバラッケが建てられていたのです。

 かつてのドイツ人俘虜収容所の大半は今では県営住宅となっており、実際に『第九』が演奏された第1バラッケの跡地は、県営住宅の中になっています。

2本の門柱 ドイツ村公園


◇『第九』の日本初演
 1918年(大正七年)6月1日午後6時30分、板東俘虜収容所第1バラッケにおいて、ヘルマン・ハンゼン指揮の徳島オーケストラによって、『第九』が日本初演されました。
 オーケストラは第1バイオリン8名をはじめとする総勢45名。楽器は個人所有のもの、手作りのもの、支援者の援助によるものなどがあり、ファゴットはオルガンで代用されたとのことです。

 独唱者はヴェーゲナー、シュテッパン、フリッシュ、コッホの4人。友好出演の80人のコーラスを含め、彼等は当然のことながらすべて男性でした。フィナーレでは客席のドイツ人俘虜も共に歓喜の歌を歌いだし、感動的な場面が繰り広げられたそうです。
 この日本初演を松江所長など日本人が聴いたという記録は、残念ながら残っていません。

 俘虜収容所の建物は1920年(大正9年)4月に俘虜収容所が閉鎖された後も陸軍の施設として残され、第二次大戦後には引揚者の住宅施設となりました。
 かつて中日ドラゴンズのエースで今はタレントとして活躍する板東英二さんは、この『第九』が初演された第1バラッケに住んでいたそうです。
 

◇ドイツ兵慰霊碑

 「ドイツ村公園」の奥にある細い道を進むと、2つの慰霊碑が建っています。
 古い方の慰霊碑は、帰国を前にしたドイツ俘虜たちにより、スペイン風邪などで命を落としたドイツ兵俘虜11名の冥福を祈って建てられたもので、1919年(大正8年)8月に完成していました。

 第二次大戦後、ドイツ人俘虜収容所のバラッケに海外からの引揚者住宅となった事は先に書いたとおりです。
 この住宅に住んでいた主婦、高橋春枝さんが草に埋もれたこの慰霊碑に気づき、人々の協力も得て13年にわたって清掃と献花を続けました。
 このことが新聞で紹介され、ドイツ大使や総領事がお礼に訪れたのをきっかけに、板東とドイツとの交流が広がったのです。

 新しい記念碑は1976(昭和51)年に建てられた、全国の収容所で亡くなった87名のドイツ人俘虜の合同慰霊碑です。

奥にある細い道を進むと 2つの慰霊碑が建っている
ドイツ人俘虜慰霊碑 新しい合同慰霊碑
  
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