利尻礼文撮影紀行 (4)ノシャップ岬 と 稚内公園 2007年9月23日(日) |
稚内市内を通り過ぎ、次はノシャップ岬です。 イルカのオブジェが建つ公園からは、利尻島や礼文島が見えました。
◇稚内公園 見晴らしの良い展望公園かと思って上ってみたのですが、この公園は太平洋戦争終戦時に樺太で犠牲になった人々を偲ぶ、慰霊公園でした。 「氷雪の門」に立つ乙女の、天を仰いで慟哭する姿が、この公園を粛然としたものにしています。 隣に建っているのが「九人の乙女の碑」で、「皆さん これが最後です さようなら さようなら」という字が刻まれています。 碑文を読み、この史実を知らなかった僕は、自分を恥ずかしく思いました。 終戦直前の昭和20年8月9日、スターリンは一方的に「日ソ中立条約」を破り、日本に宣戦布告し、北緯50度の国境線を超えて軍を南樺太に南下・侵攻させました。 ソ連軍のモラルは低く、至るところでソ連兵による略奪や婦女暴行が続きました。 このような混乱の中、真岡郵便局の電話交換室に勤める高石ミキ(24)、可香谷シゲ(23)、吉田八重子(21)、志賀晴代(22)、渡辺照(17)、高城淑子(19)、松橋みどり(17)、伊藤千枝(22)、沢田キミ(18)ら9人の交換手は、迫り来るソ連兵の恐怖の中、強い責任感を持って交換業務を続けていました。 8月15日の終戦後もソ連軍の攻撃は続き、8月20日にソ連軍は真岡への侵攻を始めました。 郵便局も攻撃を受け、恐怖と絶望の中、乙女達は次々と青酸カリを飲んで死んでいきました。 最後の電話は伊藤千枝によるもので、「もうみんな死にました。私も乙女のまま清く死にます。皆さん これが最後です さようなら さようなら」と伊藤は言い、それが真岡局からの最後の通信となったそうです。 僕はこの文章を書いていても泣けてきます。 理不尽にも侵略してくる他の国から、自国民を守れないとは何と情けない話ではありませんか。 近くには、昭和43年に稚内を訪問された昭和天皇と香淳皇后が詠まれた、『樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる』、『樺太につゆと消えたる少女らのみたまやすかれとただにいのりぬ』の歌碑が建てられています。
公園内に建つ「稚内開基百年記念塔」の1・2階は北方記念館となっています。 9人の乙女達の写真と当時使われていた電話交換機とが展示されており、なんともいたたまれぬ気持ちになりました。 また、稚内は1983年9月1日に起きた大韓航空機撃墜事件では、救助、捜索の最前線となりました。 大韓航空機撃墜事件は慣性誘導装置の設定ミスのためにソ連の領空を侵犯した大韓航空のボーイング747が、ソ連の戦闘機により撃墜された事件です。 乗客乗員合わせて269人全員が死亡し、その中には28人の日本人乗客が含まれていました。 稚内とは、なんという悲劇に彩られた街でありましょうか。
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