大学病院巡り 福岡・大分 (6)広瀬神社 2007年12月31日(月) |
時間があったので、広瀬神社に寄ってみました。 日露戦争の軍神 広瀬武夫中佐と竹田出身の戦没者1627柱を祀った神社で、昭和10(1935)年に建立されました。 広瀬神社の鳥居の前に阿南惟幾顕彰碑がありました。 阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年2月21日 -〜1945年8月15日)は竹田市出身で、太平洋戦争終戦時の陸軍大臣(陸軍大将)。 阿南は終戦時に本土決戦を唱え、ポツダム宣言受諾前に「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」書き残し、辞世の句として「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」と詠み、陸相官邸で自刃しました。
広瀬神社境内には広瀬武雄記念館があり、無人でしたが300円で見学することが出来ました。 内部には広瀬中佐の遺品や資料が展示されていました。 広瀬武夫は、幕末岡藩勤王の志士広瀬重武の次男として竹田茶屋の辻で誕生。 飛騨高山の小学校を卒業後に小学校教師を務め、明治18年(1885年)に海軍兵学校へ入学。 飛騨護國神社、城山公園にも銅像があるそうです (@o@) 明治27年(1894年)の日清戦争に従軍し、明治30年(1897年)にロシアへ留学しました。
明治37年(1904年)より始まった日露戦争において、広瀬は旅順港閉塞作戦に従事しました。 3月27日に行われた第二回閉塞作戦において、広瀬は閉塞船福井丸を指揮しました。 撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹を助けるため船内を3度捜索中、ボート上で敵軍砲弾の直撃を受け戦死しました。 享年36。 広瀬は戦死後、海軍中佐に昇進し、杉野は海軍兵曹長に昇進しました。 ◇尋常小学唱歌 第四学年用『広瀬中佐』 一、 轟く砲音(つつおと)飛び来る弾丸(だんがん) 荒波洗うデッキの上に 闇を貫く中佐の叫び 「杉野は何処杉野は居ずや」 二、 船内隈なく尋ぬる三度(みたび) 呼べど答えず探せど見えず 船は次第に波間に沈み 敵弾いよいよ辺りに繁し 三、 今はとボートに移れる中佐 飛び来る弾丸(たま)に忽(たちま)ち失せて 旅順港外恨みぞ深き 軍神広瀬とその名残れど |