山形 茂吉と芭蕉の旅 (5) 大石田 最上川 聴禽書屋 2008年7月21日(月・祝) |
尾花沢からタクシーで大石田に戻ります。 5月27日に尾花沢を出発した芭蕉と曽良は、山寺(立石寺)に寄り道して、5月28日(新暦7月14日)に大石田に到着しました。 大石田到着翌日の5月29日、高野一栄宅で開かれた連句の会で、「さみだれをあつめてすゝしもかミ川」の句が詠まれました。 この句は推考の後、「おくのほそ道」中の名句「五月雨をあつめて早し最上川」となりました。 高野一栄宅に3泊した芭蕉と曽良は、6月3日に大石田を出立し、新庄へ向かいました。
終戦後、故郷の金瓶に疎開していた斎藤茂吉は、昭和21年1月30日、金瓶から大石田に移り、二藤部兵右衛門方の離れに落ち着き、2年半を大石田で過ごしました。 彼はこの離れを「聴禽(ちょうきん)書屋」と名付けました。 この聴禽書屋がそのまま残され、隣に大石田歴史民俗資料館が建てられています。 この旅行の後に発売された週刊新潮8月7日号、斉藤由香さんのエッセイ「トホホな朝 ウフフの夜」に、「山形さくらんぼの旅」と題し、聴禽書屋を共に訪れた父北杜夫(斎藤茂吉の次男)との会話が綴られていました。 当時松本高校生であった北杜夫は、昭和21年6月からの2ヶ月を、この家で茂吉と二人で暮らしました。 「パパはこの家のどこで過ごしたの?」 「二階にいたの。(中略)地元の人は茂吉が有名な歌人だとは知らなかったらしい。山形弁まるだしで、毎日、最上川のほとりに座って、ぼーっとしている老人にすぎなかったからね。(中略)その後、天皇陛下の東北巡幸中に茂吉が拝謁した(昭和22年8月16日・上山村尾旅館)のを見て、偉い歌人だとわかったようだね」 「パパ達はどんな生活をしていたの?」 「たまに散歩に行った。茂吉は、ときどき立ち止まつては瞑目した。(中略)パパは昆虫が好きだったからその間狩猟蜂の観察をしたりして、一時間経って戻ってきても、まだそのままだった」 「ずっと考えていたの?」 「そうなの。(中略)当時は食糧難だったから、パパも『御飯のお代わりはしないように』と、きつく言われていたんだ」 茂吉と北杜夫、そして北杜夫と斉藤由香、三代の親子の会話がこの建物で交わされたのですね。
大石田は蕎麦が有名だそうで、駅の蕎麦屋さんで十割蕎麦を食べてきました。 少し堅めのアルデンテで、美味しかったです (^_^) 。
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