続・太宰治の『津軽』を巡る
(24)港の桟橋 赤い糸の伝説 2009年9月23日(水)

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  秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合つた。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである。ふたりがどんなに離れてゐてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとひ往来で逢つても、その糸はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。

 これは『思い出』に書かれ『津軽』に引用された「赤い糸の伝説」です。
 この文章は僕の大学入試の和文英訳の問題として出題されまして、僕は何とか英文を書き、大学に合格したわけです (^_^) 。
 僕の人生を左右した文章と言っても良いでしょう。

 それだけに、この場面の舞台となった「港の桟橋」にはどうしても行ってみたかったわけです。
 青森県近代文学館の係員からは「コンクリート工場の辺りだと言われています」というヒントをもらいましたが、例のチラシにその場所は書かれていませんでした。
 
 桟橋は海にあったに決まっていますから、太宰の下宿(豊田家)から真っ直ぐ海へ向かいます。
 すると、そこは大きい公園になっていました。
 そこは「青い海公園」の隣なんですが、Googleマップで調べても、この公園の名前が出てきません。

 大きな記念碑が建っておりまして、「景仰聖徳」と書かれています。
 意味は分かりませんが、何だか有り難い言葉のようです。
 ネットで検索していると、この辺りは昔「聖徳公園」と呼ばれていたようです。

 そばに「海の記念日発祥の地」の石碑があったので、近寄ってみました。

景仰聖徳碑 海の記念日発祥の地
大きな碇の下の 碑文を読む


◇「海の記念日発祥の地」碑
 明治9年(1876年)、明治天皇は初の東北巡幸で青森を訪れました。
 巡幸の日程を終えられた天皇は、7月16日、浜町桟橋からわが国初の鉄製蒸気船「明治丸」に乗り込み、函館を経由して7月20日、無事に横浜に帰還されました。
 その日を記念し、海洋海事思想の普及を願って昭和16年に制定されたのが、「海の記念日」です。
 平成8年、この記念日は国民の祝日「海の日」になりました。
 天皇の訪れを記念した石碑や「海の記念日発祥の地」碑が、聖徳公園に建立されています。

 なるほど! ここに旧青森桟橋があったのです。
 明治天皇が乗船されるほどの桟橋なので、さぞや立派な桟橋だったのでしょう。
 そしてその桟橋で、太宰は弟と「赤い糸の伝説」を語り合ったのですね。

 どうしてこの公園に太宰治の文学碑が無いのでしょう?
 合浦公園といい、青森市の人は太宰治に冷たい仕打ちをしているように感じられます。

 海岸に出て、太宰と弟が眺めた景色を確認し、今回の旅行はお仕舞いです。

現青森港、アスパム方面 浅虫方面、右手にコンクリート工場


◇JAL 名古屋 → 青森便

 精力的に『津軽』を回りましたが、青森県の太宰関係では、浅虫、大鰐、碇ヶ関などが残っています。

 ところが、JALは2010年1月19日に会社更生法の適用を申請し、倒産(?)しました。
 最近(10年5月)の新聞報道ではJALは路線を縮小し、名古屋 → 青森便は廃止される方向だそうです。
 これでは、残された関連史跡を訪れることは難しくなってしまいました。
 まことに残念ですが、これだけ回っておけば、まあするべき事はした、という満足感はありますね (^_^ゞ。
 
 
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