『東京骨灰紀行』を巡る 09年12月27日(日)
小塚原回向院  解体新書

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 南千住駅前に小塚原回向院は建っていました。
 日比谷線の窓からもよく見える、コンクリートの建物です。
 
 建物の手前に「吉展地蔵尊」が立っていました。
 昭和38年(1963年)3月31日、東京台東区の入谷公園から4歳の吉展ちゃんが誘拐されました。
 犯人から身代金を要求する電話がかかり、4月7日、捜査陣の不手際で身代金50万円が奪われました。
 警察は報道機関に対し報道の自粛を要請し、「報道協定」が結ばれましたが、後に公開捜査に切り替えられ、脅迫電話の声はラジオ、テレビを通じて全国に放送されました。、
 65年7月、元時計商小原保(32歳)が平塚八兵衛の取り調べに犯行を自供し、自供通りに吉展ちゃんの遺体は南千住円通寺の墓地から発見されました。
 回向院は村越家の菩提寺だそうです。
 
小塚原回向院 吉展地蔵尊


 墓地は回向院の建物の奥にあります。
 墓地に抜ける通路の右側の壁に「蘭学を生んだ解体の記念に」と名付けられた石板がはめ込まれています。
 明和8年(1771年)3月4日に、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らがこの地に腑分けを見に来ました。
 玄白と良沢はオランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」を持参しており、その内容が正確なごとに驚きました。
 彼らはこの本を翻訳することを決心し、翌日、中津藩中屋敷の前野良沢家に集まりました。

右手の壁に 「蘭学を生んだ解体の記念に」
『解体新書』のレリーフ 右が史蹟エリア


 回向院のお墓は綺麗に整備されておりまして、お墓らしい荘厳さがありません。
 大都会にあるお墓の宿命でしょうか。
 吉田松陰の墓は世田谷区の松陰神社にあるものが正式だろう、と『東京骨灰紀行』には書かれていました。

史蹟エリア 右が「腕の喜三郎」 江戸時代の侠客
高橋お伝 お墓は谷中霊園にもある 鼠小僧 後ろの墓石は削られている
橋本左内 隣りに巨大な顕彰碑
吉田松陰 右隣り 頼三樹三郎
一番奥が吉田松陰 磯部淺一夫妻
 
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