大雄山荘(斜陽の家) & 曽我梅園 2010年 2月21日(日) |
朝起きてインターネットで「富士山ライブカメラ」をチェックしたら、富士山が綺麗に見えていました。 かねてより狙っていた「曽我梅園と富士山」の写真を撮るチャンスです。 早速新幹線で出発しましたが、静岡の辺りから曇り空になってしまい、富士川鉄橋からも富士山は見えませんでした (@o@)。 しかし、僕にはもう一つの目的がありました。 それは太宰治『斜陽』ゆかりの大雄山荘。 2009年12月26日に不審火で全焼してしまいましたが、その跡でも見ておきたい。 到着した下曽我駅は小さな駅で、梅まつりを訪れる人で大混雑していました。 まずは下曽我駅前の道を真っ直ぐ進みます。
突き当たりを左に曲がって進むと、宗我神社の鳥居が見えてきます。 その右横の道を斜めに進むと、曾我兄弟の菩提寺である城前寺に到着します。
ここまでは03年1月13日に来たことがありますので、そちらのレポートをご覧下さい。 あの時は富士山も見えていたのでした。 城前寺の前の道を100メートルほど進むと、火事の跡も生々しい大雄山荘がありました。 03年にはここに『斜陽』ゆかりの家があるとは知らず、すぐそばまで来ながら帰ってしまいました。 下調べは重要ですね (^_^ゞ。 太宰の愛人だった太田静子は、太平洋戦争中この家で実母と暮らしていました。 彼女は太宰の勧めで日記を付けていましたが、太宰はその日記を『斜陽』の題材として借用するため、昭和22年2月21日、この家にやってきました。 図らずも今日と同じ2月21日とは (@o@)‥‥梅の花も満開だったことでしょう。 太田静子もただでは日記を渡しません。 太宰は大雄山荘に5日間滞在しましたが、その間に静子は妊娠し、生まれた子供は太宰の名前を取って「治子」と名付けられました。 静子の妊娠を知らされた太宰は、「たった一度で出来るとはね。俺はなんて子早いんだろう。我が身を怨むね」と言ったそうです(「回想 太宰治」・野原一夫)。 大雄山荘の焼け跡に立ち、60年あまり前に太宰がここで子作りに励んだのかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。 僕は『斜陽』を読んだことはないのですが、かなりの部分が日記から引用されているそうです。
あとは曽我梅園の梅まつりです。 屋台が並び、人出も多かったのですが、富士山が見えなかったのは残念でした。
|