三条河原 瑞泉寺(豊臣秀次の墓・駒姫の墓) 2010年10月3日(日)
  
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 『おくりびとの旅』で訪れた山形で、僕は駒姫の菩提寺(専称寺)訪れたのでした。
 今回は京都瑞泉寺にある駒姫の墓を訪れます。

 豊臣秀次は天正19年(1591年)、九戸政実の乱鎮圧の総大将として奥州に出兵しました。
 秀次は異常な女好きで、正室、継室、そして多数の側室がありました。
 秀次は、東国一の美少女と名高かった最上義光の二女駒姫の噂を聞き、側室に差し出すよう義光に命じました。

 義光も困ったことでしょうが、秀次の意向に逆らえるはずもなく、成人したら娘を京へ送ると約束することになりました。
 秀次との関係を密にすることは、義光にもメリットがあったことでしょう。

 文禄4年(1595年)、秀頼の誕生で邪魔になった秀次は、秀吉の命により高野山で切腹させられました。
 秀吉はそれだけでは飽きたらず、秀次の寵愛を受けていた女性と彼の血をひく子どもなど39名の処刑を命じました。
 処刑は京三条河原で一人ずつ行われ、5時間かかったそうです。

 遺体は遺族に渡されることも許されず、川原に掘った穴に投げ込まれ、「畜生塚」と呼ばれました。
 義光は嘆く間もなく謀反の疑いをかけられ、謹慎処分を受けることになりました。

 慶長16年(1611年)、角倉了以が高瀬川の開削中に秀次一族の墓石を発見し、彼らを弔うために瑞泉寺を建立しました。
 
三条河原 ここで処刑が行われた


 三条大橋西の高瀬川に面して瑞泉寺がありました。
 三条大橋の賑わいとはうって変わった静かなお寺です。
 中に入るのに、ちょっと足がすくみました。
 
高瀬川  
瑞泉寺  
本堂 墓所への道


 墓所の中央には秀次の墓石があり、その左右に側室らの墓が並んでいます。
 処刑された39名の名前や辞世の句が残されていることが、たまらなく恐ろしい。

 駒姫(於伊万の方)は11番目に処刑されました。
 彼女は京に着いたばかりで、秀次に目通りもせぬままに処刑されてしまったそうです(15歳)。
 辞世の句は、「罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」

 秀次の正室は池田輝政の妹(若御前)で、彼女は助命されたそうです。
 池田輝政と最上義光の政治力の違いでしょうか?
 
豊臣秀次の墓 石櫃
妻妾の墓が左右に並ぶ 駒姫の墓
処刑された人々 駒姫(於伊万の方)

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