5)円覚寺 東慶寺 六代御前の墓(逗子市)
2011年1月2日(日)

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 円覚寺は北鎌倉駅のすぐそばにありました。
 というより、北鎌倉駅は円覚寺の境内にあるのかな?
 江ノ電が境内を通っていることは間違いありません。
 早朝の円覚寺は凍えるような寒さでしたが、このような静謐さが禅宗のお寺にはふさわしいかと思いました。

 円覚寺は1282年(弘安5年)、八代執権北条時宗が中国より無学祖元を招き開山しました。
 時宗は蒙古襲来による殉死者を弔うために、円覚寺建立を発願したとされています。

 開基廟には北条時宗、貞時、高時の3人が祀られています。
 現在の開基廟は江戸時代1811年(文化8年)に改築されたものとされていますが、お堂の下に各遺骨を納めた石櫃があるという言い伝えがあるそうです。
 
北条時宗公御廟所 山 門
開基廟 時宗、貞時、高時の3人が祀られている


 1893年(明治26年)に帝国大学を卒業した夏目漱石(1867〜1916)は高等師範学校の英語教師になりましたが、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになりました。
  治療のために明治27年12月から翌年の1月にかけての約半月、漱石は円覚寺の搭頭、帰源院で参禅しましたが、それほどの効果はなかったようです。
 漱石が松山に赴任したのは翌1895年(明治28年)のことです。

 明治43年に書かれた『門』にはこの時の体験が生かされています。
 「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。」
 
右手の坂の上に 漱石が参禅した帰源院

 
◇東慶寺

 円覚寺の近くに東慶寺がありました。
 東慶寺の開山は北条時宗夫人覚山尼により、縁切り寺として知られています。
 五世用堂尼は後醍醐天皇の皇女で、護良親王の菩提を弔うために入寺しました。
 二十世天秀尼は豊臣秀頼の娘で、義母千姫の後援を受け、徳川家との関係が深くなりました。

 参道には梅の木が並び、梅の花が咲く頃に来てみたいものです。
 東慶寺には西田幾多郎、小林秀雄など有名人のお墓も多いようですが、案内無しに探すことはとても出来ませんでした。

東慶寺  
梅の木が多い 本 堂


◇逗子海岸・六代御前

 この日は富士山が綺麗に見えていたので、逗子まで脚を伸ばしてみました。
 逗子の地理が分からないので、タクシーに乗って「富士山が見える海岸まで」と言ってみたところ、「海岸だけでは分からない」と運転手さんは不機嫌でした。
 それでも海岸まで行って適当に歩いていたら、富士山と江ノ島がくっきりと見えました。
 距離があるので、望遠レンズ無しでは苦しいでしょうか。

 逗子駅への帰りはバスにしましたが、川沿いのバス停の前に「六代御前最後之故址」の石碑が建っていました。
 僕は六代御前を知らないので、写真だけ撮ってきましたが、後ろの森にお墓があったようです。

 平維盛は平清盛の嫡男・重盛の長男として生まれ、光源氏の再来といわれる美貌の貴公子でした。
 維盛は頼朝追討軍の総大将として、治承4年(1180年)9月の「富士川合戦」に大敗。
 寿永2年(1183年)4月には木曾義仲追討軍の総大将として「倶利伽羅峠の戦い」で義仲軍に大敗しました。

 平家一門が都を落ちて西走するとき、維盛は妻と嫡男六代を都に残しました。
 六代御前は維盛の嫡男で、つまり清盛の曾孫。
 平正盛(清盛の祖父)から数えて直系の六代目に当たることから「六代)」と名づけられました

 維盛は妻子恋しさのあまり、戦線を離脱しました。
 のちに高野山に入って出家し、熊野三山を参詣し、ついには那智で沖に漕ぎだして入水自殺したとされています。
 享年27。
 しかし維盛は落ち延びたという伝承も多く、静岡県富士宮市には平維盛のものとされる墓があるそうです。

 都に潜伏していた六代は北条時政の捜索によって捕らえられました。
 捕らえられた六代は文覚上人の助命嘆願のため処刑を免れ、剃髪して出家しました。
 しかし頼朝の死後、文覚上人の失脚により、六代は田越川にて処刑されてしまいました。
 享年27。
 これで平清盛の嫡流は途絶えました。
 
逗子海岸 富士山と江ノ島 六代御前最後之故址
 
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