4)鎌倉お墓巡り(源頼朝、北条高時、護良親王) 2011年1月1日(土) |
「お墓巡り」は僕のテーマの一つです (^_^; 。 ◇源頼朝の墓 鎌倉のお墓巡り、まずは源頼朝です。 源頼朝は正治元年(1199年)1月13日に53歳で死亡しました。 急死だったようですが、『吾妻鏡』には頼朝の死についての記載が無く、落馬説など色々な説が唱えられています。 現在の石塔は安永8年(1779年)に、薩摩藩藩主島津重豪によって建てられたものだそうです。
◇北条高時 腹切りやぐら 稲村ヶ崎を越えて押し寄せる新田義貞の軍勢に追われて、北条高時を始めとする北条家の一族870余人は北条家の菩提寺である東勝寺において自害、全滅しました。 元弘3年(1333年)年5月22日、高時は31歳でした。 「北条高時 腹切りやぐら」は、なかなかに不気味なところでした。 この周囲で870余人が死んでいたのかと想像すると、ゾゾーっとしました。 「やぐら」とは鎌倉に多い、横穴式墳墓のことです。
◇大塔宮護良親王の墓 大塔宮護良親王は「だいとうのみやもりながしんのう」と読むものだと思っていましたが、色々な読み方があるようです。 建武の中興の殊勲者であった護良親王ですが、足利尊氏と対立し、やがて後醍醐天皇とも仲違いし、後醍醐天皇の命により捕らえられ、鎌倉へ送られました。 鎌倉では尊氏の弟足利直義の監視下に置かれました。 建武2年(1335年)7月、北条高時の遺児北条時行による「中先代の乱」が起こりました。 時行は鎌倉を一時的に奪還しました。 この混乱の中、東光寺に幽閉されていた護良親王は、直義の命を受けた淵辺義博によって殺害されました。 親王は義博の刀を噛み折り、死んでもなお放さなかったそうです。 、親王の首は妃の「南の方」により近くの「理智光寺」に運ばれ、その寺の僧によってねんごろに葬礼が営まれたそうです。
◇鎌倉宮・大塔宮 明治維新後、東光寺跡に親王の霊を弔うために鎌倉宮が造られ、これは地元では通称「大塔宮」(おおとうのみや)と呼ばれているそうです。 鎌倉宮は初詣客で混雑していました。 神社の裏手には護良親王が幽閉されていた土牢があるそうですが、人が多くて諦めました。
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