小山初代の墓(清安寺・弘前市) 2014年10月12日(日) |
太宰治の最初の妻(内妻)である小山初代については、太宰治『姥捨』紀行(谷川温泉)に詳しく書きました。 小山初代は1937年(昭和12年)6月、叔父吉沢祐五郎を仲に立てて正式に太宰と離婚。 太宰から餞別30円を受けて青森に帰京し、浅虫温泉で家業の魚屋を手伝いました。 やがて北海道に渡り、室蘭などに住みました。 その後の初代は、中村清という軍属と深いかかわりを持つようになり、彼に連れられて満州に渡り、大連、青島などに住んだようです。 1942年(昭和17年)初秋に一時帰国。 東京杉並区の井伏鱒二宅を訪れ、約1週間逗留した後、浅虫の生家に帰って1ヶ月以上滞在。 浅虫で小館善四郎(姦通事件の相手・浅虫在住)に会い「早くいい人を見つけて結婚しなさい」と勧める。 再び井伏宅を訪れ、1週間余り逗留した後、井伏夫妻からの反対を押し切って再び青島に渡りました。 当時、顔面神経麻痺を患っていました。 1944年(昭和19年)7月23日、青島で死去。享年33。 8月23日、白木の箱に納まって帰国。 彼女の死は1945年(昭和20年)4月10日に、井伏から太宰に伝えられました。 2代津軽藩主信枚は1610年に、弘前城の南西の砦として、津軽一円の寺院をこの地に集めました。 曹洞宗三十三ヵ寺の寺が道の両側に並んでおり、禅林街と呼ばれています。 一番奥にあるのが津軽藩の菩提寺、長勝寺です。
小山初代の墓は、長勝寺に近い「清安寺」にありました。 清安寺の墓地は思ったより広く、小山家の墓は墓地の中央あたりにありました。 二つの墓が並んでいて、一つはだいぶ傾いています。 どちらが初代の墓になるのか、詳細は全く分からないそうです。
小山初代の弟、小山誠一氏夫妻には子供がなく、最後まで墓を守っていた夫人が亡くなったあとは無縁仏になっているとのこと。 本当は整理しなくてはならないが、時々太宰ファンが訪ねてくるので、どうするか迷っているとのことでした。 |