太宰治『姥捨』紀行(谷川温泉) 2014年9月15日(月・祝)

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 越後湯沢から上越線に乗り、「国境の長いトンネル」を逆方向に抜けて、水上(みなかみ)駅に到着しました。
 水上駅から谷川温泉までは、タクシーで10分くらいでしょうか。
 
上越線 水上駅


 太宰治は弘前高校時代の昭和2年に、青森の芸妓小山初代(おやまはつよ)と知り合い、青森に通うことになりました。
 太宰の小説「東京八景」によれば、この頃の二人に肉体関係はなかったそうです。
 
 昭和5年(1930年)、東大生となっていた太宰(22歳)は、初代(17歳?)を東京に呼び寄せました。
 この時、太宰の長兄文治は「初代との結婚を許す代わりに、津島家から分家除籍する」 と太宰に言い渡しました(11月24日)。
 そして文治は一度初代を青森に連れ帰りますが、「東京八景」によれば、この時に初めて太宰は初代を抱いたそうです。

 太宰は初代と一緒に暮らしてみたかっただけで、結婚する気はなかったと思います。
 大地主の息子であり、東大生でもあった太宰にとって、青森の芸妓と結婚させられることは大変不本意なことだったでしょう。
 この結婚話を破談にするために、太宰は11月28日、バー・ホリウッドの女給である田辺あつみと江ノ島に近い小動岬でカルモチンによる服毒自殺を図ったのでしょう。
 睡眠薬カルモチンに慣れないあつみは吐瀉物で窒息して、死亡してしまいました。

 しかし、このような仕打ちを受けても、初代は太宰と別れませんでした。
 このような玉の輿を逃がす選択はなかったのでしょう。
 そして12月に太宰の静養先である碇ヶ関温泉の柴田旅館で仮祝言を挙げましたが、初代が津島家に入籍されることはありませんでした。

 その後、太宰は東京で住所を変えながら、非合法活動に熱中します。
 昭和7年6月、太宰は青森時代の初代が多くの男性と肉体関係を持っていたことを聞かされ、ショックを受けました。
 太宰は初代が処女で自分と結ばれたと信じていました。
 何もかも嫌になった太宰は警察に自首し、非合法活動と訣別しました。

 昭和10年3月、大学を卒業できず、新聞社にも不合格となった太宰は、鎌倉で首吊り自殺を図ったとされています。
 太宰の書くことには嘘が多く、どこまで信じたら良いのか良く分かりません。

 昭和10年4月に盲腸炎で入院。
 太宰はその時に使った鎮痛剤パビナールによる中毒となってしまいました。

 太宰は処女作である『晩年』の出版記念会を昭和11年7月11日に上野精養軒で開き、パビナール中毒と肺病治療のため、8月7日に谷川温泉にやって来ました。
 川端康成の勧めがあったようです。

 ということで、やっと谷川温泉です。

 太宰研究家の長篠康一郎氏の詳細な調査により、太宰の宿泊した川久保屋の跡は谷川本館になっている事が分かりました。
 谷川本館の前の駐車場に石碑があり、長篠氏による解説が書かれています。
 
谷川本館 前の駐車場の一角に
谷川本館と石碑 左側が長篠康一郎氏の解説


 太宰が泊まった川久保屋は小さい料亭で、彼は隣の金盛館で入浴をしたそうです。
 谷川本館の3階には「太宰治ミニギャラリー」がありました。
 
 太宰は谷川温泉で『晩年』が第3回芥川賞に落選したことを知り、多大なショックを受けました。
 太宰は8月末に谷川温泉を去りました。
  
太宰が風呂を借りた金盛館 谷川本館の玄関
太宰治ミニギャラリー 内部の展示


 谷川温泉から帰っても、太宰のパビナール中毒は酷くなる一方で、出費もかさみ、初代の和服は知らぬ間に質屋に入れられてしまいました。
 初代は金木の文治に助けを求めました。
 さっそく中畑慶吉(青森の呉服屋)と北芳四郎(東京の洋服屋)がやって来ました。
 彼らと初代は太宰を入院させることとし、井伏鱒二に説得を依頼しました。

 太宰も肺病治療のためということで入院に同意したようで、昭和11年10月13日に井伏、初代、中畑、北の4人の付添で、武蔵野病院に入院したのでした。
 しかし、太宰が入院させられた武蔵野病院は、麻薬患者収容病棟のある精神病院でした。

 しかも3日目からは「自殺の恐れがある」とのことで、鍵の掛かった監禁病棟に閉じ込められてしまいました。
 このままでは「気違いにされてしまう」と太宰は怒りと恐怖のどん底に突き落とされました。
 『人間失格』ですね。

 太宰はこの入院を企んだのは妻の初代だと考え、学もない青森の芸妓風情が大地主の息子で東大生だった自分を「気違い」にしようとしたことに激しい怒りと憎しみを持つわけです。
 初代もさんざん苦労させられて、いい迷惑です。

 「パビナール中毒症は完治した」との診断を受け、太宰は11月12日に武蔵野病院を退院しました。
 太宰と初代は同じ車で帰ったそうです。

 昭和17年に発表された『帰去来』、昭和18年に発表された『故郷』によれば、太宰は中畑慶吉、北芳四郎の二人には、その後も世話になっているようです。

 話は変わって、太宰治の四姉きやうが小館家の長兄小館貞一に嫁いだため、小館善四郎は太宰と親戚になりました。
 善四郎は当時帝国美術学校(現武蔵野美大)の生徒で、5歳年上の太宰にかわいがられていました。
 太宰が武蔵野病院に入院させられる少し前に、善四郎は手首を切って自殺を図り、篠原外科病院に入院しました。

 太宰が入院してから初代は太宰との面会を病院によって拒絶されてしまいます。
 代わりに、善四郎の家族に頼まれたこともあって、初代は善四郎の世話ををすることになります。
 そして、初代と善四郎は「哀しい間違い(東京八景)」を犯してしまうわけです。
 山岸外史(太宰の友人・評論家)が初代に尋ねたところ、性交渉は一度だけだったそうです。

 二週間後に善四郎は退院し、故郷の浅虫温泉に帰郷してしまいます。
 この時に初代と善四郎が姦通について口止めを誓ったことは当然のことです。

 昭和12年3月に善四郎は卒業作品提出のために上京して来ます。
 彼は太宰の住む荻窪の碧雲荘を訪ね、太宰と便所で鉢合わせした時に、初代との「哀しい間違い」を告白してしまうわけです。

 それから太宰は地獄に落ち、初代との心中を考えるようになるわけです。
 ということで、小説『姥捨』の世界までやって来ました。

 小説『姥捨』は昭和12年3月下旬に主人公(嘉七)と不倫を犯した妻(かず枝)が、水上温泉の山中で睡眠薬を飲んで心中を図ったが未遂に終わった、という物語です。
 小説には「あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことにってつけようと思った」と書かれています。

 太宰の年譜にはこのように書かれているのですが、先に書いた長篠康一郎氏はこの事件の虚実を疑いました。
 長篠氏の著作「太宰水上心中」によれば、長篠氏は実際に3月に雪の積もる現場に寝てみて、このままでは凍死してしまうと確信したそうです。
 自らの体験から、長篠氏は『姥捨』はフィクションであろうと考えておられるそうです。
 
 水上駅から谷川温泉に向かう途中の右側に、石碑があります。
 きちんと見ていないと見逃しそうな小さい石碑です。
 運転手さんの話では、このあたりが『姥捨』心中の現場に当たるそうです。
 
谷川温泉に向かう途中、右側に石碑 『姥捨』の一部が彫られている


 その後、太宰は下宿、初代は井伏鱒二宅と二人は別れて暮らしました。
 太宰が井伏家を訪れたときには、初代は顔を合わせないように隠れていたそうです。
 初代は何とかよりを戻したいと懇願しましたが、太宰にその気は全くありませんでした。

 昭和12年6月に初代は荷物をまとめ、故郷浅虫に戻りました。
 

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