小動岬(太宰治)、腰越状(源義経)、瀧口寺(日蓮上人) 2010年11月14日(日) |
11月13日(土)、14日(日)と2日続けて藤沢オペラを観劇しました。 14日は鎌倉から江ノ島電鉄に乗って、沿線観光をしながら藤沢に向かいました。 横浜ではエイペックが行われていましたが、鎌倉も警備が厳重でした。 この日にオバマ大統領が鎌倉大仏を訪れたそうです。
まずは七里ヶ浜。 遠くに江ノ島と小動岬が見えています。 「七里ガ浜の磯伝い 稲村ガ崎 名将の 剣投ぜし 古戦場 」 1333年(元弘3年) 鎌倉攻めの新田義貞も、この景色を見ながら侵攻したのでしょう。 晴れた日には富士山が見えるようです。
◇小動岬(太宰治) 次に鎌倉高校前で下車し、小動岬(こゆるぎみさき)に向かいます。 1930(昭和5年)11月28日、太宰治は銀座のカフェー・ホリウッドの女給「田部あつみ」(19歳)と小動岬の畳岩で睡眠薬カルモチンによる心中自殺を図り、太宰は生き残り、あつみは死亡しました。 睡眠薬に慣れないあつみは、吐物で窒息して死んだそうです。 彼らが会ったのは3日前の11月25日でした。 太宰はその前日の11月24日に兄文治から、分家除籍を条件に青森から出奔させた小山初代との結婚を強いられたのでした。 この芸者との結婚は(愛人ならいざ知らず)資産家の実家を持ち高学歴の太宰にとって、不本意なものだったと思われます。 田部あつみも愛人との間に問題を抱え、人生に絶望し、死にたいもの同士が出会ってしまったのでしょう。 この時、太宰の長兄文治の依頼で三千円という大金を預かり、病院に駆けつけたのが中畑慶吉(五所川原の呉服屋)でした。 彼は北芳四郎(東京の洋服屋)と力を合わせ、事件の解決に当たりました。 たまたま事件担当の刑事が金木出身者で、また鎌倉の裁判所で事件を担当した検事が、太宰の実家の遠縁でした。 これが功を奏したのか、太宰は自殺幇助罪に問われましたが、起訴猶予となりました。 しかし一人の人間を死なせてしまったことは、太宰の人生に深い傷跡を残しました。 太宰は津軽に戻され、碇ヶ関温泉柴田旅館で静養し、12月に小山初代と仮祝言を挙げました。 太宰たちが服毒した畳岩を見ようと腰越漁港から回ってみたのですが、護岸工事のため進入禁止となっていました。 太宰が収容された恵風園療養所は小動岬のすぐそばにあり、入院した太宰は毎日小動岬を見ながら療養したのですね。 この病院は『道化の華』の舞台となりました。
◇腰越状(源義経) 1185年(元暦2年)、京での振る舞いが頼朝の怒りを買った義経は、弁明のために鎌倉に向かいました。 しかし、義経は鎌倉に入ることを頼朝に拒否され、満福寺に足止めされてしまいました。 義経は公文所別当大江広元宛てに腰越状(こしごえじょう)を書き、頼朝への取り次ぎを依頼しましたが、結局鎌倉入りを許されず、義経は空しく京都へ引き返すこととなりました
◇瀧ノ口刑場跡(日蓮上人) 江ノ島では海岸ではなく、瀧ノ口刑場跡に行ってみました。 江ノ島駅から案内表示を頼りに、歩くこと5分くらいで瀧ノ口刑場跡碑がありました。 執権北条時頼に提出した 「立正安国論」で、日蓮は他宗を痛烈に批判し、法華経を広めない限り、日本に侵略の難が起きるだろうと 予言をしました。 この過激な宗教活動の中で他宗の怒りを買った日蓮は、執権北条時宗によって、ここ瀧ノ口刑場で処刑されかかりました。 1271年(文永8年)9月12日の、いわゆる瀧ノ口法難です。 まさに日蓮が斬首されようとしたとき、江ノ島の方から満月のような光るものが飛んできて、役人たちは目がくらみ、ついに首を切ることが出来ず、日蓮は佐渡配流に減刑されたといいます。 その刑場跡に1337年(延元2年)、弟子の日法により建立されたのが瀧口寺(りゅうこうじ)だそうです。
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