1)五所川原・中畑慶吉さん 2014年10月12日(日)

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 11時12分の五能線に乗り、12時に五所川原に到着。
 途中で岩木山は霞んで、見えなくなってしまいました。
 五所川原でも金木でも、午前中は見えていたそうです。

 まずは駅前の食堂「でる・そーれ」で津軽料理のランチ。
・津鉄汁
 津軽鉄道沿線の金木町嘉瀬で育てられた地鶏のシャモロック。
 味が濃厚で、だしのうまみが際立ちます。
 そのだし汁に、県産の舞茸、根菜類が入ったあっさり塩味の津鉄汁。
 でる・そーれの看板メニューです

・若おい昆布のおにぎり
 若生(わかおい)とは、薄く柔らかい1年ものの昆布のことで、津軽半島沿岸で冬場に昆布を収穫して干したものです。
 食べる時には、繊維に対して直角に歯を当てると昆布が噛み切れず、逆に繊維に沿って噛み切ると、スッと切れてくれます。
 繊維に沿って噛んでも、噛み切れず、ご飯が昆布から出てきてしまい大変でした。
 「若おい昆布のおにぎり」は太宰治の好物だったそうです。
  
五能線 津軽鉄道 津軽五所川原駅
でる・そーれ 若おい昆布のおにぎり ↑


 小説『津軽』で、西海岸から帰った太宰は、まず中畑慶吉さんの家を訪れます。
 駅前の大通りをまっすぐ行って、この角を右折します。
 かつて、この通りに面して中畑さんのお店があり、津島家の呉服を取り扱っていました。
 今でも家族の方が住んでおられ、五所川原の観光マップにも書かれています。
 『津軽』に出てくる一人娘、けいさんも御存命だそうです。

 太宰は『津軽』に次のように書いています。
 中畑さんの事は、私も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いて置いた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるかずかずの不仕鱈の後仕末を、少しもいやな顔をせず引受けてくれた恩人である。

駅から真っ直ぐ歩くとこのような景色 大通りをこの角で右折し
この通りに中畑さんのお店があった 中畑さんご一家 中央がけいさん

 
 中畑慶吉(なかばたが正しいそうです)1895年4月8日~1975年10月7日)は北津軽郡中里町に生まれ、五所川原の呉服店(飛島)の店員として津島家に出入りを始めました。
 当時中畑さんは店を持たずに注文を取って回る、背負呉服をしていました。
 津島家が呉服費として毎月支払う金額は、五百円を下るということはありませんでした。

 昭和5年11月28日、中畑慶吉が35、6歳の頃、東大生となっていた太宰は銀座のカフェに勤める田辺あつみと鎌倉小動岬の海岸でカルモチンによる薬物心中を図り、あつみは死亡しました。
 この時、太宰の長兄文治は中畑さんに三千円という大金を渡し、事件の解決を依頼しました。
 彼や北芳四郎(東京の洋服屋)の働きもあり、太宰は起訴猶予で済ますことができました。
 田辺あつみの火葬に立ち会ったのは中畑さんただ一人だったそうです。

 小山初代と結婚してからも、月に1回、東京に買い出しに出かける中畑さんは、文治からの仕送りを太宰に届けるお目付役であり、太宰と津島家の唯一の窓口でした。
 太宰家のタンスの中の物は質屋に入っており、妻の初代から中畑さんは「あれもほしい、これもほしい」とねだられたそうです。

 昭和11年7月11日に『晩年』の出版記念会が上野の精養軒で行われたとき、太宰の着物があまりにみすぼらしいので、中畑さんは六百円で衣装を整えてやりました。
 しかし、この衣装はすぐに六十円の質札になってしまいました。

 昭和11年10月13日に、パビナール中毒が酷くなる一方の太宰を、精神病院に入院させたときも、初代、井伏、中畑、北の4人が太宰に付き添ったそうです。

 昭和14年1月10日に東京の井伏邸で執り行われた石原美知子との結婚披露宴にも、中畑、北の両氏が参加しています。
 中畑さんは30分以上にわたり、今までの太宰の過去について、すべてを話したそうです。
 太宰は新婚旅行のお金を2円しか持っていなかったので、仰天した中畑さんと北さんで、三百円を渡したそうです。

 昭和17年に発表された『帰去来』、昭和18年に発表された『故郷』などを読むと、中畑慶吉と北芳四郎は義絶となった太宰と津島家との関係の修復に尽くしています。

 昭和23年6月に太宰が入水自殺したとき、東京の北さんから「遺体が上がった」との連絡を受け、文治から預かった2~3万の大金を持って上京しました。
 太宰の葬式の費用は津島家から出たようです。

 太宰の墓についても、中畑さんが美知子夫人と津島家との間に入っているようです。
 「このような不始末では代々の墓には入れられないから、どうしたら良いか正直に言ってくれ」という中畑さんに美知子夫人は「娘は東京で育てたいので、墓は近くの禅林寺はどうでしょう」という答えがあったそうです。
 
 美知子夫人の「回想の太宰治・増補改訂版」(講談社文藝文庫)によれば、美知子夫人は遺骨を金木にある津島家の菩提寺である南台寺に葬りたかったそうです。
 しかし長兄の文治から「郷里に帰るに及ばず、東京で葬るように」と断られ、そこで東京で浄土真宗の寺にあたって断られ、禅林寺の住職の好意で、今の場所に埋葬されることができた、と書かれていました。

 中畑さんは昭和18年に奢侈禁止令が施行されてから呉服業を止め、地元のデパート(多分マルキトビシマ・○の中にキ)の役員をされたそうです。

 市内マップによれば、この通りの右側に旭座があったようです。
 これも『津軽』から引用します。
 叔母が五所川原にゐるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年の頃だつたと思ひます。たしか、左右衛門だつた筈です。梅の由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思はず立ち上つてしまつた程に驚きました。あの旭座は、その後間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔が、金木から、はつきり見えました。
 

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