2)太宰治「思ひ出」の蔵(五所川原) 2014年10月12日(日)

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 太宰治は1909年(明治42年)6月19日に青森県北津軽郡金木村に、大地主である父津島源右衛門と母タ子(たね)の六男として生まれました。
 母親の健康上の都合により、太宰は生後まもなく乳母の手に委ねられます。
 しかし、この乳母に縁談があり、1年足らずで津島家を去ります。

 太宰は1歳で、叔母きゑによって育てられることになります。
 きゑは、最初の夫と離縁し、2番目の夫と28歳で死別した後、4人の娘と生家で暮らしていました。
 太宰はきゑについて、「生みの母よりもこの叔母を慕っていた」と書いています。

 きゑは娘のリエに婿養子を取り、大正5年(1916年)1月に五所川原に分家し、婿は津島歯科医院を開業しました。
 当時6歳の太宰もきゑに付いて五所川原に来て、叔母一家と暮らしました。
 太宰は叔母に貰われたのだと思つていましたが、2ヶ月後に小学校入学のために金木へ戻されました。

 翌大正6年に、もう一人の育ての親である女中の「たけ」がきゑ宅に仕えることになり、五所川原に移ってきました。
 太宰は小中学校時代、度々この叔母宅へ立ち寄っていました。

 『津軽』に「たけは、いつの間にかゐなくなつてゐた。或漁村へ嫁に行つたのであるが、私がそのあとを追ふだらうといふ懸念からか、私には何も言はずに突然ゐなくなつた。」と書かれているのは、例によって太宰の『嘘』のようです。
 
 戦時中、太宰が金木に疎開していた折にも度々叔母の家を訪れました。
 叔母きゑの家には「蔵」があり、昭和19年(1944年)の五所川原の大火で母屋を失ったきゑ一家は、蔵を住居としていましたので、太宰はこの蔵で酒を飲み、きゑやその家族、友人らと語らいました。

 この「蔵」は平成23年、地区画整理事業により解体されました。
 その時に木材を保存し、2014年9月、「太宰治『思ひ出』の蔵」が建てられました。
 蔵の中には、太宰から送られた手紙など貴重な資科などが展示されています。
 
左に「思ひ出」の蔵、右に立佞武多の館 「蔵」の裏側。昔の煉瓦が使われている
「思ひ出」の蔵の入口・無料 内部の展示 撮影自由


 建ったばかりとあって、「蔵」の中は木の香りがむせるようです。
 古い材木でも鉋で削ると新しい材木になったようで、木の持つ力に驚きました。

 中でも目を引いたのが、中畑家から借りているという掛け軸。
 昭和26年6月19日に三鷹市禅林寺に集まった太宰の関係者が、中畑さんをねぎらうために書かれた寄せ書きです。
 中央に津島美知子、左下に井伏鱒二など、太宰関係の書物に出てくる名前が並んでいます。

 中畑さん御一家の写真も展示されていました。
 娘の「けいちゃん」は『津軽』の登場人物で、太宰を乾橋(いぬいばし)まで案内しました。
 ご存命中で、お元気だそうです。

中畑さんをねぎらうために書かれた寄せ書き 中畑さん一家。中央が娘の「けいちゃん」


 大きな甕が展示されておりまして、この瓶に水がいっぱい入れられていたために「蔵」は焼けずにすんだということです。
 ぜひ写真を撮って下さい、と勧められました (^_^) 。
 
大きな甕 津島歯科


 2005年(平成17年)の市町村合併で、 (旧)五所川原市、北津軽郡金木町、市浦村が新設合併して、新「五所川原市」が発足したことは、五所川原市にとって幸せなことでした。
 それまでのポスターは「太宰のふるさと・金木」だったのに、今では「太宰のふるさと・五所川原」ですからね。
 金木の斜陽館を訪れる人は、五所川原駅で五能線から津軽鉄道に乗り換えるわけですが、一列車遅らせてもいいから「太宰治『思ひ出』の蔵」を訪ねられたら良いと思いますよ。
 駅から2〜3分だし、太宰は金木の実家より五所川原の叔母の家の方が、ずっと好きだったのですから。
 

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