続・太宰治の『津軽』を巡る (9)五所川原 叔母の家 乾橋 2009年9月21日(月) |
![]() 9月21日(月)早朝、ホテルから岩木山は綺麗に見えていましたが、曇り空が気になるところです。 今回のホテルは「パークイン五所川原エルムシティ」。 巨大ショッピングセンター「エルムの街」の前に建つホテルで、レンタカーなら利便性は抜群。 夕食はショッピングセンターで簡単に済ませました。 今日は『津軽』の旅として、西海岸を訪れます。 津軽の西海岸は五能線で、「リゾートしらかみ」が大変人気となっています。 JR五所川原駅には五能線「リゾートしらかみ」の大きな看板が掛かっています。 五所川原は夏の巨大な立佞武多でも多くの観光客を集めています。 JR五所川原駅の左隣にあるのが津軽鉄道津軽五所川原駅で、太宰の故郷である金木にはここからはここから津軽中里行きの列車に乗り換えです。
五所川原駅の向かいにある江南バス乗り場では「おやき」が有名で、ガイドブックや旅番組によく出てきます。 内田康夫の『津軽殺人事件』(1991年)では、浅見光彦が「おやき」を食べる場面があります。 「おやき」って今川焼きですかね。
JR五所川原駅前の道を真っ直ぐ進むと、ロータリーに出ます。 そして、ロータリーの裏手に津島歯科があります。 太宰の叔母きゑは二人の夫と離婚、死別を経て、4人の娘と「やま源」に暮らしていましたが、娘のリエに婿養子を取りました。 そして、太宰が7歳の時に五所川原に分家し、婿は津島歯科医院を開業しました。 太宰はきゑについて「生みの母よりもこの叔母を慕っていた」と書いており、幼少時よりたびたび叔母の家を訪れました。 『津軽』の旅でも、ハイカラ町の叔母の家を訪ねていますが、あいにく叔母は孫の看病のため留守でした。 太宰は叔母の家に一泊して、翌朝一番の津軽鉄道に乗り、小泊のタケの元に向かったのでした。
『津軽』で太宰は、恩人中畑慶吉さんの娘のけいちゃんと岩木川にかかる乾橋に行ったのでした。 乾橋からは岩木山が綺麗に眺められました。 けいちゃんは明後日に養子を迎えることになっていました。 こんど、おむこさんをもらふんだつて?」 「ええ。」少しもわるびれず、真面目に首肯いた。 「いつ? もう近いの?」 「あさつてよ。」 「へえ?」私は驚いた。けれども、けいちやんは、まるでひと事のやうに、けろりとしてゐる。 「帰らう。いそがしいんだらう?」 「いいえ、ちつとも。」ひどく落ちついてゐる。ひとり娘で、さうして養子を迎へ、家系を嗣がうとしてゐるひとは、十九や二十の若さでも、やつぱりどこか違つてゐる、と私はひそかに感心した。
乾橋は五所川原市と西海岸地方を結ぶ橋です。 長さ76間(約137m)、幅3間(約5.4m)の木製の橋が完成したのは明治17年11月。 架かる際には、橋ができると今までの顧客が、木造(現つがる市)や鰺ヶ沢方面の商人に取られてしまうと、五所川原の商人たちが大反対を唱えたそうです。 その後、乾橋は昭和4年(1929年)に岩木川改修工事のため、総工費15万2千円をかけ、長さ324メートル、幅5.4メートルの鉄筋コンクリート橋として掛け替えられました。 太宰とけいちゃんとのエピソードは、この時期の橋のことですね。 当時の橋は、現在の橋より少し上流にあったそうです。 現在の乾橋は、交通量の増大に対応するため、昭和37年に架替えられたものです。 総工費約2億円を掛け、長さ346メートル、幅6.5メートルの橋が完成しました。 |