3)太宰治「思ひ出散歩道」(五所川原) 2014年10月12日(日)

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 「太宰治『思ひ出』の蔵」には、「太宰治『思ひ出散歩道』なる、観光案内図が掲示されていました。



◇乾橋
 まずは、中畑さんの一人娘けいちゃんと訪ねた岩木川に掛かる「乾橋」です。
 この日は岩木山が見えなくなっていたので、2009年9月の写真を使わせていただきます。


 『津軽』より
 けいちやんの案内で町を五分も歩いたかと思ふと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もつと町から遠かつたやうに覚えてゐる。子供の足には、これくらゐの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであらう。それに私は、家の中にばかりゐて、外へ出るのがおつかなくて、外出の時には目まひするほど緊張してゐたものだから、なほさら遠く思はれたのだらう。橋がある。これは、記憶とそんなに違はず、いま見てもやつぱり同じ様に、長い橋だ。
「いぬゐばし、と言つたかしら。」
「ええ、さう。」
「いぬゐ、つて、どんな字だつたかしら。方角のいぬゐだつたかな?」
「さあ、さうでせう。」笑つてゐる。
「自信無し、か。どうでもいいや。渡つてみよう。」
 私は片手で欄干を撫でながらゆつくり橋を渡つて行つた。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似てゐる。河原一面の緑の草から陽炎がのぼつて、何だか眼がくるめくやうだ。さうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光つて流れてゐる。
「夏には、ここへみんな夕涼みにまゐります。他に行くところもないし。」
 五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑はふ事だらうと思つた。


◇招魂堂
 旧五所川町出身の英霊を祀る招魂堂として創設。
 戦後は菅原道真を祭神とする永福神社として存続しました。
 
招魂堂 招魂堂

 『津軽』より
 「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちやんは、川の上流のはうを指差して教へて、「父の自慢の招魂堂。」と笑ひながら小声で言ひ添へた。
 なかなか立派な建築物のやうに見えた。中畑さんは在郷軍人の幹部なのである。この招魂堂改築に就いても、れいの侠気を発揮して大いに奔走したに違ひない。橋を渡りつくしたので、私たちは橋の袂に立つて、しばらく話をした。
 ==中略==
「こんど、おむこさんをもらふんだつて?」
「ええ。」少しもわるびれず、真面目に首肯いた。
「いつ? もう近いの?」
「あさつてよ。」
「へえ?」私は驚いた。けれども、けいちやんは、まるでひと事のやうに、けろりとしてゐる。「帰らう。いそがしいんだらう?」
「いいえ、ちつとも。」ひどく落ちついてゐる。ひとり娘で、さうして養子を迎へ、家系を嗣がうとしてゐるひとは、十九や二十の若さでも、やつぱりどこか違つてゐる、と私はひそかに感心した。

 
◇みずとみどりの小公園

みずとみどりの小公園 8本の細い堰が流れている

 『津軽』より
 七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が顎のあたりまでありました。三尺ちかくあつたのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたので、それにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちやうど古着屋のまへでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵児帯でした。ひどく恥かしく思ひました。叔母が顔色を変へて走つて来ました。


◇つがる総合病院

 平成26年4月1日、五所川原市役所隣地に「つがる西北五広域連合つがる総合病院」が開院しました。
 つがる総合病院は、西北五地域の自治体病院機能再編成において、急性期医療、救急医療、災害医療の役割を担い、それに対応できる機能と設備を兼ね備えた、この地域の中心となる病院です。

つがる総合病院  
受付ロビー 病棟 病室から岩木山が見えるそうだ。
レストラン入口 誰もいないレストラン
立佞武多が、この道を通るそうです。  


 この連休は一泊旅行の予定でしたが、、翌10月13日(月・休)には台風19号の襲来で、全国で飛行機が飛ばなくなってしまったんです。
 この日の夜の便に空席があったので何とか帰ることができましたが、危ないところでした。
 

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