福井県小浜市 (1) 常高院 2015年5月31日(日) |
僕はお墓好きですから、浅井三姉妹の次女・常高院(お初の方)の墓参りに福井県小浜市に行ってきました。 名古屋から小浜までは、新幹線 ⇒ しらさぎ ⇒ 小浜線を乗り継いで、およそ2時間半。 御食国(みけつくに)は、日本古代から平安時代まで、皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料を貢いだと推定される国を指す言葉だそうですが、読めませんね (^_^; 。
以下の記載は、常高寺のホームページを参考にさせていただいています。 晩年、江戸に滞在していた常高院(お初の方)は、夫京極高次の菩提を弔い、さらには父母である浅井長政とお市の方らの供養の為、寛永七年(一六三〇年)嫡男である忠高(側室の子)が領する小浜の地に常高寺建立を発願しました。 しかし、常高院は晋請半ばの寛永十年八月二十七日、京極家の江戸屋敷にて波乱に富む人生を閉じました(享年六十六歳)。 遺骸ははるばると木曽路を越えて小浜城に運ばれ、常高寺において葬儀が執り行われました。 城主忠高を始め、家臣もことごとく喪服にて葬列に参加したと言われます。 常高寺の仏壇には、左に浅井長政・お市の方、中央に常高院、右に京極高次の位牌が並んでいました。
常高院は「将来国替えがあっても常高寺だけはこの若狭の地に留めおくよう」と言い残しました。 常高院没後の寛永11年(1634年)、京極氏は出雲松江藩に国替えとなり、京極高次の供養塔は出雲に移されましたが、常高寺は小浜に残されました。 以後、京極家が出雲、播磨、讃岐へと国替えになっても、常高寺は京極家の庇護を受け続けました。 常高院の墓は常高寺の背後の山に建てられていました。 その墓に向かう道が国道27号で分断されているのは情けないことでした。 お墓は四メートルもある立派な宝篋印塔で、七院の尼たちのお墓四十八基(うち四基は殿方)に周りを囲まれていました。 七院と言うのは、常高院が亡くなった時仕えていた7人の侍女たちが尼になり、位牌をお祀りするために住んだ、常高寺の傍の尼屋敷のことのようです。
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