宝田明物語 ~宝田座~ 2016年5月14日(土)2:00PM 中電ホール |
会場の中電ホールは宗次ホール近くにある座席444席の中ホール。 以前、立川談春の落語を聞きに行ったことがありますが、久しぶりに入ってみると、壁などがコンサート会場風に改装されたようでした。 東京公演(内幸町ホール)は満席だったようですが、名古屋公演(マチネ)は3分の2くらいの入りだったでしょうか。 開演前にマイクを持った沢木順さんが客席に現れまして、「幕が上がる前に皆さんにお願いがあります。携帯電話、カメラ撮影、ビデオ撮影、すべて‥‥OKです (@o@)。その代わり、その画像をどうぞ全国に拡散して下さい。この素晴らしい舞台を、もっと多くの皆さまに見ていただくため、御協力下さい」とのことでした。 たまたま修理のため持ってきたカメラがあったので、バシバシ撮ってしまいました。 宝田明物語 ~宝田座~ 2016年5月14日(土)2:00PM 中電ホール 宝田明 井料瑠美 沢木順 青山明 本間ひとし 鐘丘りお 長谷川幹人(エレクトーン) 第一部は『宝田明物語』。 宝田明さん(1934年4月29日~)が満鉄職員の子供としてハルピンで暮らしていた戦前の話から、『ゴジラ』の主役に抜擢され若手スターとなるまで。 下の写真のように、椅子に座ったままで物語は進み、李香蘭、軍歌などが歌われました。 前半のクライマックスは、終戦直前に日ソ不可侵条約を破棄して侵略してきたソ連軍による略奪、暴行の中、帰還船を目指しての必死の逃避行でしょう。 1月30日の深夜にテレビのチャンネルを回していた僕は、「奥底の悲しみ~戦後70年、引揚げ者の記憶~」という番組を途中から見ました。 山口放送制作のドキュメンタリーで、第11回日本放送文化大賞 テレビ・グランプリを受賞した番組だということは後日知りました。 満州に侵入してきたソ連軍は、シベリア刑務所の囚人に軍服を着せた、世界でも最悪の軍隊だったそうです。 ソ連兵(ロスケ)は日本人の家に押し入り、略奪の限りを尽くし、「マダムワダイ(女を出せ)」と要求したそうです。 ロスケは女性達を裸で並べて、後ろから強姦・輪姦したそうです。 拒否した女性は射殺され、すぐに次の女性が並べられました。 道路でも雪の中でも集団強姦は繰り返されたそうです。 家族の前からトラックに乗せられた女性達も数多くいました。 夫達は「抵抗するな、無事に帰ってこい」と言うのが精一杯でした。 母親達は、まず子供を殺してから、首を切ったり、青酸カリで自殺するよう教えられました。 強姦された女性の中には、手榴弾で一家心中した家族も多く、ロスケを恐れ、集団自決をした開拓団もあったそうです。 ロスケに妊娠させられた女性の中には、こんな身体では日本に帰れない、せめて日本を一目見てから死にたい、と、日本を目の前に身投げをした人も多かったそうです。 妊娠させられた女性達は帰国後「特殊婦人」として隔離され、堕胎手術が行われました。 強姦され、逃避行の中で飢え死にした母親(綺麗な方でした)について語る男性の後ろで、奥さんが「そんなこと初めて聴いた」と驚いているいるのが印象的でした。 そういった70年間心の奥底に押し込めていた真実を、引き揚げ者自身が語っているのです。 引き揚げ者たちも高齢になり、この時期にこのようなドキュメンタリーが作成されたのは、まことに有意義なことでした。 宝田さんもソ連兵に銃をこめかみに押しつけられたり、腹を撃たれて麻酔なし裁ちばさみで切開手術を受けたり、大変な経験をされたそうです。 宝田さんはご自分の経験から、60歳を過ぎた頃から戦争反対を唱えておられるそうですが、それは子供と同じ発想に思われます。 僕はこの史実から学ぶべき事は、自分を守ってくれる軍隊を持たない国民はいかに悲惨な事態に追い込まれるか、ということだと思っています。 ヒトラーやスターリンのような狂人が今後日本に攻め込んでくることは、決して無いと思いますか? 当時、満州に住んでいた人たちも、まさかソ連が攻めてくるとは思っていなかったでしょう。 宝田さんは父親の故郷である新潟・村上市に帰りましたが、知らないお店のおばさんに柿をもらう話や、満州に置き去りにしてきた兄との再会など、感動的な場面が続きます。
やがて宝田さんは1953年(昭和28年)に、東宝ニューフェイス第6期生に合格し、俳優生活が始まります。 しかし極貧生活が続き、同期の岡田眞澄さんとは、一杯のラーメンを右と左から、分け合って食べたそうです。 1954年に『ゴジラ』で初主演を果たし、若手のトップスターになるところまでで、第一部は終わりました。 宝田さんの波瀾万丈の人生に引き込まれ、1時間20分の第一部はあっという間に終わってしまいました。 その後、人気スターとなった宝田さんは毎晩銀座に繰り出す生活を送り、ミスユニバース世界大会で優勝された児島明子さんと結婚され、そして離婚と、人生いろいろですね。 やがて、宝田さんはミュージカルの世界にも進出し、日本ミュージカルの草分けとなりました。 最初のミュージカルは1964年10月に新宿コマ劇場にて初演された《アニーよ銃を取れ》で、アニー役は江利チエミさんでした。 その後も多くの舞台に出演され、1980年、日本初のミュージカル俳優養成学校「宝田芸術学園」を開校されました。 「宝田芸術学園」は1983年5月末に閉鎖となりましたが、多くの人材を輩出しました。 第二部は宝田さんゆかりのミュージカルのナンバーが演奏されました。 平成24年度文化庁芸術祭大衆芸能部門大賞を受賞された《ファンタスティックス》も取り上げられ、96年5月5日にサリバン・ストリート劇場で見た舞台を懐かしく想い出しました。 1)ショウほど素敵な商売はない(アニーよ銃をとれ) 【全員】 2)ゼイ・セイ・イッツ・ワンダフル(アニーよ銃をとれ) 【宝田】 3)ソ・-・イン・ラブ(キス・ミー・ケイト) 【宝田・井料】 4)サウンド・オブ・ミュージック 【鐘丘】 5)エーデルワイス(サウンド・オブ・ミュージック) 【宝田】 6)君住む街角 (マイ・フェア・レディ) 【青山】 7)踊り明かそう (マイ・フェア・レディ) 【井料】 8)夢さめて (ファンタスティックス) 【本間・鐘丘】 9)トライ・トウ・リメンバー(ファンタスティックス) 【宝田】 10)慕情(映画「慕情」) 【沢木】 11)雨に歌えば~リズム・フォー・ライフ 【本間】 (雨に歌えば~スウィート・チャリティー) 12)チーク・トウ・チーク (映画「トップ・ハット) 【青山・井料】 13)マイウェイ 【沢木】 14)バリ・ハイ~魅悪の宵(南太平洋) 【宝田・井料】 15)見果てぬ夢(ラ・マンチャの男) 【宝田】
宝田さんは82歳になられたばかりですか。 脚が切断が必要となるような大けがをされ、心臓のバイパス手術をされ、それでも元気に舞台で歌い踊っておられました。 生けるレジェンドですね。 次回は『宝田明物語』の後編を拝見したいものです。 本間さん以外のメンバーは劇団四季のOB・OGでした。 本間さんは「宝田芸術学園」出身。 井料さんと沢木さんの《オペラ座の怪人》などを聴いてみたかったのですが、今回は趣旨が違ったようです。 5月20日に宝田さんの故郷である新潟・村上市で行われる公演が、多くの皆さまに見ていただけますように、沢木順さんの御言葉に従い、急いでレポートを書いてみました。 |