野外オペラとオーストリアの旅(10)1993年8月12日
インスブルック(2)
※王宮教会,マキシミリアン一世,アンドレアス・ホーファー

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 インスブルックの王宮教会は、ハプスブルグ家の礎を築いたマキシミリアン一世が自らの墓所として、愛するインスブルックに建てた教会。
 教会中央には大きな黒い棺が置かれていて、その周囲を「黒い仲間たち」と呼ばれる28体の銅像が囲んでいる。
 像はアーサー王や、王家の始祖ルドルフ等がいて、マキシミリアンは自分の葬儀にこれらの人物を参列させようとしたわけだ。
 しかし、皮肉なことにマキシミリアン1世は市民の反対でここには埋葬されず、生地であるヴィーナー・ノイシュタットの聖堂に埋葬されているそうだ。

 宮王宮教会の入口を入ってすぐ右手、祭壇の反対側に旗を持った立像が建っているが(写真 → )、これがチロル独立戦争の英雄アンドレアス・ホーファーの墓だ。
 アンドレアス・ホーファーは1767年11月22日に今はイタリア領となっている、南チロルPasseier地方のSt. Leonhard に生まれた。
 父親は宿屋を経営。3才で母親を、7才で父親を失い、22才でアンナと結婚し6人の娘と1人の息子をもうけた。
 彼はSandhofという旅館を経営する傍ら、家畜、穀物、ワインの販売も行った。
 これらの仕事を通じて、彼はチロル全体を知り、またチロルの人々に知られるようになった。
 彼には人を引き付けるカリスマ性があり、1790年(22才)には、ヨーゼフ2世死亡後のチロル州議会の議員に選ばれている。
 1796年射撃部隊の伍長となり、1797年と1805年にはPasseier地方の射撃部隊隊長として、フランス軍と戦っている。

 さて、アウステルリッツの戦いでナポレオンに破れたオーストリアは、プレスブルクの講和(1805年)によって、チロル、フォアアールベルグ、ヴェネツィアをフランスに譲渡せねばならなかった。
 そして、チロルはナポレオンと同盟したバイエルンに与えられた。

 この時期ホーファーは家業に戻ったが、密かにヨハン大公(《ヨハン大公のヨーデル》で有名な人物)と反バイエルンの秘密協定を結んだ。
 1809年フランスとオーストリアとの間に戦争が勃発した時、「ドイツ民族」に対し、フランスの圧制者への戦いの檄が発せられ、チロルではこれに呼応して、ホーファーらにより4月に兵が挙げられた。

 彼らはバイエルンとフランスの軍隊をチロルから追い出し、8月17日にホーファーはチロルの元首の地位に着き、それからの2カ月をインスブルックの王宮で暮らした。
 しかしナポレオン軍の反撃に遭い、10月21日にはインスブルックを去らねばならなかった。
 11月1日のBerg-Iselの戦いでチロル軍は大敗を喫し、 ホーファーは降伏文書に署名した。
 しかしその後彼は逃亡し、その首には1500グルデンの懸賞金が懸けられた。
 彼は家族と共にPasseier地方で2カ月暮らしたが、Franz Rafflの裏切りにより逮捕された。
 彼の身柄はマントヴァに送られ、フランス軍の軍法会議により、1810年2月20日、マントヴァで処刑された。
 42才だった。
 彼の遺体はナポレオン戦争後の1823年、マントヴァからインスブルックの宮廷教会に移された。

 以上だが、ほとんどドイツ語が解らないところを辞書を引き引きだから、間違っていたらたらごめんなさい。

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