バッハ街道の旅(9)2000年5月4日(水)
ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス & メンデルスゾーンの家

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 14:41 ライプツィッヒ(現地の発音ではライプツィック)到着。
 日本へは、自分が無事生きていることを伝えるため (^_^; ほぼ毎日電話したが、西鉄ハイウェイバスのバスジャック事件で実況中継があったとか、星野監督が暴力行為で退場になった、とかいう出来事があったようだ。
 ノボテルにチェックインして、しばし休息後、ライプツィッヒ市内観光を始めた。

 まずライプツィッヒ歌劇場へ。
 ライプツィッヒ歌劇場はライプツィッヒ中央駅に近い。
 中央駅から左手前方を見れば、ノボテルの向こうに特徴ある建物を見つけることが容易に出来るだろう。
 近代建築ながら、オペラハウスらしい雰囲気を残している。

オペラハウス ゲヴァントハウス
  

 アウグストゥス広場の向かいに建つゲヴァントハウスは、意外なことにガラス張りの近代的な建物でした。
 メンデルスゾーンが演奏活動を行ったゲヴァントハウス(織物会館)は別の場所にあって、倉庫を改装した長方形のホールだったそうです。
 フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターなどの大指揮者が活躍した戦前のホールは1944年に空襲で消失し、現在の建物が建てられたのは1981年のことだそうです。

 それからゲヴァントハウスに近い「メンデルスゾーン最後の家」へ。
 メンデルスゾーンは最後の2年をこの家で過ごしました。受付で「フェリックス・メンデルスゾーンとは」(辻 恵美子)という日本語の本が売られていたので、さっそく購入しました。

 この家は1991年に西ドイツの企業に売却されるところでしたが、ゲヴァントハウス・オーケストラ第15代指揮者を勤めたクルト・マズア氏は自らの借金でこの家を購入しました。
 彼は借金返済のために「国際メンデルスゾーン基金」を設立し、その基金には日本からも多額の募金が送られました。
 辻 恵美子さんはロックペイントの社長夫人で、メンデルスゾーンの曾孫スザンナ・ハイグルバッハ夫人や、マズア夫人の偕子(ともこ)さんともお友達。
 日本での募金に多大な貢献があったということです。
 「国際メンデルスゾーン基金」会員の約半分は日本人であり、募金に応じた人々の名前は入り口の門柱に掲示されています。
 
メンデルスゾーン最後の家 中 庭
 
 
 1847年5月、イギリス演奏旅行の帰途、愛する姉ファニー急死の報に接し、メンデルスゾーンは悲嘆の余り深刻なうつ状態に陥りました。
 メンデルスゾーンには強い偏頭痛と耳鳴りがあり、医者にピアニストとしての演奏活動を禁止されました。
 しかし徐々に創作を再開し、気力を振り絞って新しいオペラ《ローレライ》やオラトリオ《キリスト》の作曲に取り組みました。

 同年10月9日にメンデルスゾーンは友人の家で倒れました。
 28日に再び発作が起こり、ひどい頭痛と共に麻痺が出現しました。
 11月1日に最後の発作が起こり、意識が混濁し、メンデルスゾーンは11月4日午後9時24分に、38歳9ヶ月の若さで死亡しました。最後の言葉は「疲れた‥‥とても疲れた‥‥」でした。
 
 メンデルスゾーンが住んでいた二階は昔のままに復元されており、彼が使っていた家具や遺品が展示されています。
 中でも彼が息を引き取った寝室(写真右 → )が大変印象に残っています。
 
 38歳という若年死であったこと、以前から強い頭痛があったこと、最後に麻痺が出現したことなどから、メンデルスゾーンの死因は脳動脈瘤の破裂によるくも膜下出血であったと推察されます。

 彼の葬儀は11月7日にアウグストゥス広場にあった聖パウル教会で行われました。
 墓はベルリンのメーリングダム墓地にあり、メンデルスゾーン家の一族と共に眠っているそうです。
 

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