ブダペスト紀行(15) 03.12.30(火)
ゼンメルワイス医学歴史博物館

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 国立博物館の前からタクシーに乗り、次に向かうのは「ゼンメルワイス医学歴史博物館」です。
 この博物館はブダにあり、ドナウ川は「自由橋」を渡りました。
 この橋はかつては「フランツ・ヨージェフ橋」と呼ばれていたのですが、彼は圧制者としてハンガリーでは人気が無くて、第二次大戦後に「自由橋」という面白くもない名前に変えられてしまいました。
 隣の橋はフランツ・ヨージェフの后妃であった「エルジェーベト橋」なんですが、彼女はハンガリー贔屓で人気があって、橋の名前も残されました。
 自由橋の正面は「ゲッレールトの丘」で、右手を挙げた「聖ゲッレールトの像」がちょっと不気味でした。


 「ゼンメルワイス医学歴史博物館」は、王宮のあるブダの丘の崖下にある二階建ての立派な家でした。
 イグナツ・ゼンメルワイスは1818年、この家で生まれました。
 彼の父親はこの家で塗装関係の店を開いていたそうです。

ゼンメルワイス医学歴史博物館 ゼンメルワイス医学歴史博物館・正面


 ゼンメルワイスはウィーン大学医学部に進学し、ウィーン総合病院の産科に勤務しました。
 やがて彼は、医師や学生が受け持つ第一診療棟の女性の方が、助産婦が受け持つ第二診療棟の女性よりも、産後の産褥熱による死亡率が高いことに気づきました。
 彼はその原因を検死解剖室から出てくる医師や学生の手を介して伝えられた「死体のような粒子」だと考えました。
 当時は手術や処置の前に手を洗う習慣は無く、素手で解剖を行なった後、手についた膿を布でぬぐって、出産にたち合う事もしばしばでした。

 ゼンメルワイスは1847年5月15日付けで、解剖室から出てくるすべての医師や学生に塩素水で徹底的に手を洗うことを命じました。
 その結果、第一診療棟での産褥熱による死亡率は劇的に低下しました。
 しかし、彼は手洗いを強制する暴君として憎まれ、産科から追放され、失意のうちにブダペストに戻ることになりました。

イグナツ・ゼンメルワイス 再現された居間


 その後、彼はブダペスト大学の産科教授となり、再び産褥熱との戦いを始めますが、彼の叫びは認められませんでした。
 有名なウィルヒョウは「どの病気も細胞の中で個々に進展する」という自説を守るため、ゼンメルワイスを強く非難しました。
 空しい努力の末、やがて彼は精神を病むようになり、彼の妻から相談を受けた恩師のヘブラ教授(皮膚科医)によって、ウィーンの精神病院に入院させられました。
 そして、長い間の狂乱状態を経て、1865年8月14日に47歳で死亡しました。


 「ゼンメルワイス医学歴史博物館」は二階が展示室になっており、受付には中年女性が座っていました。
 「ゼンメルワイスを知っているか?」と聞かれたので、「ウォッシュ・ハンズ」と答えたら、ケタケタ笑われました (^_^)。
 内部はギリシャ時代からの医学博物館になっており、その展示内容は実に充実したものです。
 しかし、詳細は不明です (^_^ゞ。
 日本の妊婦が書かれた図譜も展示されていました。
 ゼンメルワイスの頭蓋骨のコピーなるものも展示されていました。

日本コーナー ゼンメルワイスの頭蓋骨のコピー
ワックス人形・ヴィーナス うーむ・魅力的 (^_^)!

 中でも目を引かれたのが、ガラスの箱に入った若い女性の実寸大のワックス人形。
 石田純郎さんの「ヨーロッパ医科学史散歩」(考古堂)によれば、この人形はヴィーナスと名付けられているそうです。
 若い美人が胸から腹にかけて切り裂かれ、内蔵を露出させて横たわっているんですから、実に魅力的で、思わず見とれてしまいました (^_^ゞ。
 

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